東大阪市彌榮神社 小阪弥栄地車

皆さんこんにちは。

いよいよ夏祭りのシーズンが訪れました。
本来であれば鶴見区浜を皮切りに夏祭りのだんじり曳行が解禁されるのですが、浜は曳行中止を決定・・・
ワクチン接種が開始されたもののまだ普及していないことから、秋の曳行はともかく、夏の曳行はまだ各村の判断となりそうです。

しかし嬉しいニュースで、昨日は平野区西脇組が試験曳行を実施!
道路使用の兼ね合いや運営資金の関係から、今から夏の曳行の判断を変えるのは難しいかもしれませんが、せめて小屋開きだけでも・・・と、昨年より一歩前進の機運が高まってほしいところです。

さて、今回は脊戸口町の修復、西脇組の修復、市町の修復と最近話題に事欠かない平野郷に絡めたテーマを選びました。
しかし、素直に平野郷の地車の記事を持ってこないのが私味・・・懐かしの野堂町南組の先代にあたる小阪弥栄地車をご紹介します。

それではご覧ください。

東大阪市彌榮神社 小阪弥栄地車

◆地域詳細
宮入:彌榮神社
小屋所在地:神社境内

◆地車詳細
形式:大阪型
製作年:1884年(明治17年)以降?(安治郎が下川姓を名乗る時期を考慮すると)
購入年:2002年(平成14年)
大工・彫刻:西だんじりや 下川安治郎
歴史:大阪市野堂町南組→泉大津市西之町→大阪市野堂町南組→東大阪市小阪弥栄
野堂町南組では明治末期に死亡事故を起こしたため10年間曳かれなくなり、泉大津市西之町へ売却したが、次に新調した地車が小型でおんば車(乳母車)と馬鹿にされたため、西之町より買い戻している。
住吉大佐の地車請取帳36ページ表面には『泉北郡大津西濱町 平野田畑 地車買先 河合保太郎様』の記述があり、1901年(明治34年)~1919年(大正8年)の間に、野堂町南組が西之町から地車を買い戻した記録が残っている。
戦時中には再び曳かれなくなり、1965年(昭和40年)頃に修復したものの、人手不足により雇った曳き手の地車の扱いが悪く壊されたために、またしても曳かれなくなるが、1980年(昭和55年)に大修理を行い、完全に復活する。
2002年(平成14年)に野堂町南組地車新調に伴い、東大阪市小阪弥栄へ売却され、小阪弥栄では2011年(平成23年)に修理を行っている。

余談だが、野堂町南組が新調した小型の地車はその後、野堂町南組→生野区四條→現・東大阪市長田東へ。
泉大津市西之町は買い戻しで手に入れたお金を利用して、1920年(大正9年)にこの地車と同じ大工の西だんじりやに製作を依頼し地車を新調している。
西之町は折角気に入って購入した地車をすぐに買い戻され、余程惜しかったと思われる。鬼板・枡合・柱・脇障子・三枚板・土呂幕に構図を含めて全く同じ題材を採用(一部は異なる)した地車を新調している。
その後、泉大津市西之町→高石市羽衣→現・東大阪市横枕へ。

◆歴代小阪弥栄地車
・先代(初代?):平成11年東大阪市横枕より購入、老朽化のため曳かれず。
・現地車(2代目?):平成14年大阪市野堂町南組より購入。

参考文献)
製造年について
 兵庫地車研究会 『彫 地車彫刻の美 住吉大佐』
地車請取帳の記述・彫刻の題材について
 兵庫地車研究会 『住吉大佐「地車請取帳」と彫刻』
歴史について
 社団法人大阪観光協会 『大阪のだんじり』
歴代小阪弥栄地車について
 山車・だんじり悉皆調査 http://www5a.biglobe.ne.jp/~iwanee/

姿見

左が前方、右が後方。

野堂町南組時代からほぼ変わらぬ姿で曳行されています。
取り付けている提灯の意匠も平野郷寄りのデザインで、『やえ』と平仮名表記したものもあり、元・平野郷の地車であるオーラをとても感じます。

側面より

住吉で作られた大阪型ですのでサイズは大きめです。

斜め前より

平野郷は今でも江戸~明治の地車を綺麗に維持して曳行し続けている村が多いですが、近年では9村のうち3村の地車が新調により他の地域へ嫁いでいます。
その3台とは、神戸市灘区都賀(元・野堂北組)・神戸市東灘区森(元・野堂東組)と東大阪市小阪弥栄(元・野堂町南組)のことですが、大阪府下に残り、今も平野郷らしいスタイルを引き継いで曳行されているのは小阪弥栄のみです。

斜め後より

破風

直線的な部分はなく、全体的に優しい丸みを帯びた破風。
厚さも控えめです。

銀メッキの金具も使用しているのが特徴で、鬼板の題材が定番に獅子噛ではなく、飾目が採用されているのも平野郷の地車らしい印象です。

枡組

少し見えにくいですが、オリジナルが残っているようです。

鬼板・懸魚・桁隠し

大屋根前方
鬼板・懸魚:『桜井の別れ』

いつもであれば鬼板は鬼板、懸魚は懸魚として見ることが多いですが、この地車は鬼板と懸魚をセットで1つの題材として見ます。

大屋根前方
桁隠し:『竜・虎』

珍しく対になる題材の選び方がなされています。

大屋根後方
鬼板:『獅子噛』

大屋根・小屋根の段座が少なく、懸魚を設けるスペースがない大屋根後方には獅子噛の彫刻。理にかなった配置です。
貴重なオリジナルの顔が残っています。

小屋根
鬼板・懸魚:『赤松弾正と長山遠江守勇戦』

荒々しいオリジナルの良い表情が残っている素晴らしい作品です。

小屋根
桁隠し:『鶴』

車板・枡合・虹梁

大屋根前方
車板:『宝珠を掴む青龍』
虹梁:『雲海』

この辺りの構成はとても住吉で作られた地車らしい印象です。

小屋根後方
車板:『名和長年の最期』

右面大屋根側
枡合:『干支』
虹梁:『竹に雀』

大屋根側の枡合は干支で統一されています。

右面小屋根側
枡合:『唐獅子』

左面大屋根側
枡合:『干支』
虹梁:『竹に雀』

左面小屋根側
枡合:『唐獅子』

木鼻

上が右面、下が左面
木鼻:『阿吽の唐獅子・飛龍』

全身彫刻の唐獅子が8体・大屋根後方のみ飛龍が2体います。

柱:『竹に虎』

角柱で中を彫刻で彫り抜く仕様です。

脇障子

脇障子:『後醍醐天皇・児島高徳 桜樹に書する』

左遷される後醍醐天皇を奪回しようとするも上手く行かず、せめてもの自らの志を後醍醐天皇へ伝えようと桜樹に詩を書いた場面。
非常に映える題材ですね。

三枚板

正面:『楠木正成の出陣』

河内長野市喜多地車なども同様の題材で彫刻された三枚板を持ちます。
左下に銘板があるので、要チェックです。

右面:『楠木正季の雄姿』

左面:『楠木正行の雄姿』

勾欄合・縁葛

前方
勾欄合:『二十四孝』
縁葛:『太平記』

縁葛は痛みが激しかったことから、全て彫り替えられています。

後方
勾欄合:『二十四孝』
縁葛:『太平記』

右面大屋根側
勾欄合:『二十四孝』
縁葛:『太平記』

右面小屋根側
勾欄合:『二十四孝』
縁葛:『太平記』

左面大屋根側
勾欄合:『二十四孝』
縁葛:『合戦譚』

左面小屋根側
勾欄合:『二十四孝』
縁葛:『合戦譚』

勾欄合は二十四孝で統一、縁葛の武者彫刻は引両紋が見られますので、太平記の題材でしょう。
鬼板・脇障子・土呂幕を絡めて太平記の題材が豊富な地車です。

土呂幕

前方:『千早城・赤坂城の戦い』

前方は扉式になっています。

後方:『千早城・赤坂城の戦い』

熱した湯や油・糞尿を投げ入れる奇策で幕府軍を追い詰める有名な場面。

右面大屋根側:『六波羅攻略』

左三つ巴紋から赤松円心軍か。

右面小屋根側:『六波羅攻略』

逃げる幕府軍。

左面大屋根側:『千早城・赤坂城の戦い』

左面小屋根側:『千早城・赤坂城の戦い』

千早城での籠城戦中、幕府軍に攻撃と勘違いさせたところを返り討ちにした場面。

台木

右面:『波濤』

左面:『波濤』

台木は改修で交換されているようです。

金具

①破風中央:『松に鷹』
②破風傾斜部:『五瓜に唐花紋』 彌榮神社の地車ですので、当然ですね。
③大屋根後方:『唐草模様』 大屋根前方・小屋根より控えめの装飾です。
④垂木先:『花菱紋』
⑤勾欄親柱:『唐草模様』
⑥脇障子兜桁:『五瓜に唐花紋』
⑦肩背棒先:『彌』の文字。提灯のみ弥栄で、法被と金具は彌榮表記です。

銘板

貴重な銘です。

いかがでしたでしょうか。

地車本体が素晴らしいのは言うまでもありませんが、個人的にはこの地車を巡る関係性の方を面白く感じています。

小阪弥栄の先代地車は宮司の縁で横枕から購入。
野堂町南組は西之町にこの地車を売るもすぐに買い戻し、西之町は惜しんでこの地車によく似た地車を同じ大工に依頼して新調。その地車は今は横枕へ。
よく分かっている人がそうなるように手引きしたのか分かりませんが、それでなければ本当に運命的な関係があるようにしか思えません。皆さんはどう思われますでしょうか。

横枕と小阪弥栄が顔を合わせる機会があれば面白いと思いましたが、それを見て喜ぶ人は果たして何人いるでしょうか・・・(汗)
先代地車を譲った縁、程度の話であれば理解してもらえそうですが、新調した西之町が・・・等と言いだすと、一瞬にしてマニアックな話になりすぎて共感してもらえないでしょう。夢のまた夢ですね。

久々の記事のためか今回もよく喋りすぎました、この辺りでお仕舞いにしておきたいと思います。
最後までご覧いただき、ありがとうございました。

「東大阪市彌榮神社 小阪弥栄地車」への1件のフィードバック

  1. 小阪弥栄地車(野堂町南組先代)は、明治十年製作だと思っていました、もう少し後の作なんですね。

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