羽曳野市日吉神社 西浦地車

皆さんこんにちは。

濱八町出身の地車シリーズとして最近記事を書いていますが、気づけば第4弾まで来ていました。
今回ご紹介するのは上之町先々代にあたる西浦地車です。

濱八町出身とは書きましたが、厳密には灘の酒造家が長男の誕生祝いに新調した神戸型地車という少々変わった生い立ちで、その次に所有したのが上之町ということになります。
幾多の改修により、原型は分からなくなっていますが、破風の形状を大きく変えたり、大半の彫刻を入れ替えたり等はしていませんので、住吉大佐の地車らしい風格が今もなお健在なのが嬉しいところです。

上之町はこの地車を大正か昭和の初めか定かではありませんが、当時の世話人・若衆が尼崎まで迎えに行き、牛に曳かせて持って帰ったそうです。
購入の仲介には大石巳代吉や川原啓秀が関わったと言われています。(つまりは昭和初期?)

その後、上之町は昭和13年(1938年)に次の地車を新調しますが、昭和22年(1947年)に泉大津市森町が購入するまで、地車小屋へ2台保存していたようです。
森町に嫁いでからは、昭和60年(1985年)に大きく改修が行われ、跳勾欄から擬宝珠勾欄となり、肩背棒先に残っていた酒造家の長男の名前である『清・和』の金具が交換されました。
その後、森町も地車を新調したため、平成11年(1999年)に西浦に嫁ぎます。
西浦では平成23年(2011年)に改修され、石川型風の装いとなりました。

余談にはなりますが、個人的にこの地車に関して思い出されるのが富田林市嬉のこと。
嬉は昭和22年に上之町へこの地車を買いに訪れましたが、一日違いで森町に買われてしまったという少々悲しいお話です。
嬉は結局、森町の先代を購入して現在に至りますが、もし嬉がこの地車を購入していたら今とは違う未来になっていたでしょうから、運命の分岐点みたいなものは世の中にあるものだなと、つくづく思います。

それではご覧ください。

羽曳野市日吉神社 西浦地車

◆地域詳細
宮入:日吉神社
小屋所在地:神社境内
歴史:地名は高屋丘陵の西方にあった浦江(沼沢地)の西にあたる(浦の西)ことによる。古くから古市郡の穀倉地帯として名高く、野菜の生産が盛んな地域。

◆地車詳細
形式:住吉型(元・神戸型)
製作年:明治29年頃(1896年)
購入年:平成11年(1999年)
大工:住吉大佐
歴史:灘の酒造家(明治29年頃~大正?昭和?)
→泉大津市上之町(大正?昭和?→昭和22年)
→泉大津市森町(昭和22年~平成11年)
→羽曳野市西浦(平成11年)

参考)
地域の歴史について
角川書店 『角川日本地名大辞典 27 大阪府』

製造年・購入年・歴史について
花内友樹 著 泉大津濱八町地車禮讃

姿見

左が前方。

一目見て分かる住吉大佐の地車の風格があります。
西浦は現在石川型と住吉型の2台を所有していますが、私が訪れたタイミングでは石川型の方しか出さない、とのことで後方は撮影できませんでした。

斜め前より

擬宝珠勾欄化され、外駒から内駒へ改造されているので、パッと見た感じでは神戸型らしい雰囲気は失われています。
見送りが幕式になっているのは神戸型の名残です。

破風

森時代に破風を交換しているのでオリジナルではありませんが、無理に形状を変えたりせず、オリジナルらしい雰囲気を持たせています。

枡組

この辺りも元・神戸型の名残で、シンプルに大斗肘木タイプです。

鬼板

上から
大屋根前方:『獅子噛』
大屋根後方:『獅子噛』
小屋根:『獅子噛』

3面とも獅子噛で構成されています。

箱棟

箱棟:『雲海』

オリジナルは龍だったようですが、改修で交換されています。

懸魚・桁隠し

大屋根前方
懸魚:『鳳凰』
桁隠し:『麒麟』

小屋根
懸魚:『鷲』
桁隠し:『龍』

前後ともオリジナルがよく残っています。

車板・虹梁

大屋根前方
車板:『桜井の別れ』
虹梁:『秀吉本陣佐久間の乱入』

車板は龍等ではなく、有名な場面が彫刻されています。

小屋根
車板:『加藤清正虎退治』

枡合・虹梁

右面大屋根側
枡合:『牡丹に唐獅子』
虹梁:『賤ヶ岳の合戦?』

右面小屋根側
枡合:『牡丹に唐獅子』
虹梁:『孔雀』

左面大屋根側
枡合:『牡丹に唐獅子』
虹梁:『賤ヶ岳の合戦?』

左面小屋根側
枡合:『牡丹に唐獅子』
虹梁:『孔雀』

どれも非常に上品なタッチで、見やすい彫刻です。
孔雀の彫刻は時々見かけますが、虹梁には珍しいのではないでしょうか。

木鼻

木鼻:『唐獅子』

全部で10体あります。住吉大佐ならではの全身彫刻の唐獅子です。

水引幕

水引幕:『梅鉢紋・西浦若中の文字』

幕は森時代のものを引き継いでいます。
梅鉢紋ですが、西浦は本来は葵紋のようです。平側に〇〇若中と文字を刺繍するのも森時代の名残です。

車内枡合・虹梁

車内枡合:『牡丹に唐獅子』
車内虹梁:『石橋』

飛獅子

飛獅子が取りつきます。

改修により大屋根の高さを上げたので、今では木鼻と重なって睨み合うような感じになっています。

脇障子

脇障子:『敦盛呼び戻す熊谷次郎直実』

勾欄を跨ぐように取り付けられているのは珍しいですね。兜桁もありません。

見送り幕

正面

右面

左面

補修されていますが、かなり古そうな幕です。
題材は勾欄に隠れて読み取れませんでした。

勾欄合・縁葛

前方
勾欄合:『二十四孝』
縁葛:『源平合戦』

前方だけ縁葛が彫り替えられています。損傷が激しかったのでしょうか。

後方
勾欄合:『二十四孝』
縁葛:『源平合戦 鵯越の逆落とし』

後方だけ唯一題材が読み取れました。愛馬の三日月を背負う畠山重忠の姿が確認できます。

右面大屋根側
勾欄合:『二十四孝』
縁葛:『源平合戦』

笹竜胆紋と北条鱗紋が見えますので、源平合戦ではありそうです。

右面小屋根側
勾欄合:『二十四孝』
縁葛:『源平合戦』

左面大屋根側
勾欄合:『二十四孝』
縁葛:『源平合戦』

菅沼三つ目紋と輪違紋があり、こちらも源平合戦のようです。

左面小屋根側
勾欄合:『二十四孝』
縁葛:『源平合戦』

持送り

前方:『龍』

摺出鼻として作られた部材ですが、西浦に来てからは使わないので、前方持送りへと移設されました。良い彫刻です。

後方:『梅に鴬』

元々前方持送りのパーツは何処へ行ったのかと言うと、後方へ移設されています。

土呂幕

前方:『武者』

前方土呂幕が彫り替えられているのは前回・前々回の記事でもありましたように、カチアイによる損傷の跡かと思われます。

後方:『源平合戦』

ただ神戸型の場合、乗車口である扉式の土呂幕は後方に設けられることが多いので、上之町時代に前後を入れ替えられたのか、オリジナルで前方が扉式だったのかは謎です。

右面大屋根側:『義経八艘跳び』

船の形状や波の質感まで細かな表現が美しい、大変良い彫刻の八艘跳びです。

右面小屋根側:『義経八艘跳び』

義経を追う平教経の姿。

左面大屋根側:『宇治川の先陣争い』

両者とも川を渡っている様子が彫刻されることもありますが、この地車では佐々木高綱が先陣を切った様子がきちんと表現されています。
歌川国芳の浮世絵に忠実なのでしょうか、岸で見る武者まで彫刻されています。

左面小屋根側:『宇治川の先陣争い』

遅れを取った梶原景季、まだ陸の上です。

台木

前方:『波濤』

台木は彫り替えられています。
筒柱にもなっていますので、やりまわし対応のために台幅が広げられたものと思われます。

右面:『波濤に鯉』

左面:『波濤に鯉』

オリジナルではありませんが、題材は引き継がれています。

金具

①破風中央:『雲海に宝珠』
②破風傾斜部:『昇龍』
③垂木先:『菊紋』
④縁葛:『牡丹に唐獅子』

銘板

『細工人 堺住吉 大佐』と書かれています。
この銘板は明治29年に東成郡住吉村となってすぐの頃に見られるものですので、この地車の製造年代も明治29年頃ではないかと言われています。
地車の前後に取り付けられており、大変貴重なものです。

いかがでしたでしょうか。

上品で見やすく、大変良い彫刻を持つ地車でした。

羽曳野は様々な祭礼形態がありますが、西浦は曳き唄を歌いながらゆっくりと練り歩くスタイルで祭りをされています。
神社への坂道はなかなかのものですが、神社境内手前で更に急坂を上るのが見せ場の一つで、近年では隣の羽曳が丘と合同で宮入を行ったりしているようですので、今後の展開が期待できます。

ご興味を持たれた方は是非、足を運んでみてはいかがでしょうか。

最後までご覧いただき、ありがとうございました。

「羽曳野市日吉神社 西浦地車」への4件のフィードバック

  1. この地車の発祥は灘の酒造家(明治29年頃~大正?昭和?)
    というのが定説で私も若松さんの本からこう思っていましたが、
    最近は兵庫地車研究会の調べで孫の名の墨書きでは無く、青年団の雅語。
    要するに上村を鶏鳴と称したようにこの地区名で無かったので孫の名前と勘違いしたのではと言われています。
    その村は船寺神社河原地区の可能性が高いようです。
    来る3月17日、この地車は東灘区反高林でお披露目されるので神戸に里帰りされると言えましょう。

    1. 地車写真保存会

      いわねえさま

      大変貴重な情報ありがとうございます。
      『清・和』の文字の意が実は青年団の雅語だったとは、全く考えつきませんでした。

      その情報をもとに改めて請取帳に書かれている河原地区の仕様を読みましたところ、勾欄・枡組に紫檀が使われているとの内容が西浦時代の姿と合致しましたので、これにもまた驚きました。

      もう間もなくお披露目だったのですね、神戸に里帰りし、本住吉神社の宮入で勇壮に廻されている姿を見ることが出来るのがとても楽しみです。

      1.  入魂式に行き有識者に聞き、
        それなりの意見を聞きましたが、文書が無いので推測です。
         この地車は明治29年頃、灘の酒造家(沢の鶴?)が孫「清和」の誕生祝いに河原村に寄贈し、青年団の名前も清和と改称される。なれど孫死去につき、泉大津市上之町売却とのこと。
        約100年ぶりの里帰りで安住の地を得ました。

        1. 地車写真保存会

          いわねえさま

          ご教示いただき、ありがとうございます。
          酒造家の孫の誕生祝いに購入した話はやはり有力な情報なのですね。

          生まれた元の姿・飾りで曳行されている姿がとても似つかわしく、反高林區へ嫁いで本当に良かったと、とても感動したお披露目曳行でした。

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