皆さんこんにちは。
今回も前回に続き、堺型の記事となります。
上ヶ田北垣内は奈良県内でも非常に多くの地車が曳行されている橿原市十市町の一台で、各所の仕様から擬宝珠勾欄堺型の中では後期・末期に製作されたのではないかと思われる一台です。
それではご覧ください。
橿原市十市御縣坐神社 上ヶ田北垣内地車
◆地域詳細
宮入:十市御縣坐神社(とおちのみあがたにますじんじゃ)
◆地車詳細
形式:擬宝珠勾欄堺型
製作年:1880年(明治13年)頃と推察
購入年:不明
大工:【萬源】木村源平?
彫刻:彫又一門(一部異なる)
姿見
左が前方、右が後方
非常に背が高い印象を受けます。
後ろから見た時の破風の形状がとても綺麗です。
側面より
この地車の仕様は
①大屋根下は、枡合(詰組で二分割)・台輪(5段に見せる細工)・虹梁の構成。
②木鼻は大屋根側二段。虹梁に持送りあり。
③脇障子あり。上端が小屋根の高さまである長いもの、框無し。
④角障子あり。斜め後方向きの大型のもの。
⑤全面彫刻の縁葛。
⑥虹梁等で上下二分割されていない土呂幕。
となっています。
斜め前より
破風
堺型らしい蓑甲のピッチが細かいもので、テリが効いています。
桁隠しありの仕様です。
枡組
出三斗組になっています。
鬼板
上から
大屋根前方:『獅子噛』
大屋根後方:『獅子噛』
小屋根:『獅子噛』
この地車は獅子噛は辻田一門のものに交換されています。
手の横に渦があるタイプは、大阪市生江地車の小屋根、大阪市大友地車の大屋根前方・小屋根、三田市下相野地車の大屋根前方・小屋根、と同じです。
あくまで妄想にすぎませんが、辻田の獅子噛をつけているということは、住吉を通り越して大阪方面に一旦行き、改修を受けたのではないかと思ってしまいます。
この地車が1880年(明治13年)頃の製作として、明治20年~30年頃(堺地車騒動は明治29年)には、天王寺の仲介業者?辺りにあり、そこから上ヶ田北垣内に来たのかな?といった印象を受けました。どうなんでしょうね・・・
懸魚・桁隠し
大屋根前方
懸魚:『鷲』
桁隠し:『鶴』
大屋根後方
懸魚:『鶴』
桁隠し:『千鳥』
小屋根
懸魚:『鳳凰』
桁隠し:『朱雀』
車板・枡合・虹梁
大屋根前方
車板:『竹に虎』
虹梁:『阿の龍』
この地車の車板は面白く、前方が虎、後方が龍になっています。
どちらかと言えば龍が前、もしくは両方とも龍が多いかと思います。
先ほどの懸魚も前方が鳳凰、後方が鷲となる方が多い印象です。
大屋根後方:『松』
小屋根後方:『龍』
枡合・虹梁
右面大屋根側
枡合:『唐獅子』
虹梁:『吽の龍』
この地車の特徴と言えば、やはり詰組があることではないでしょうか。
詰組を持つ堺型は合計3台現存しており、堺市泉田中地車と伊丹市西野地車がそれに当たります。
西野地車は上ヶ田北垣内地車よりも50年以上は前のモデルではないか、と私は考えていますので、製作者の懐古的な思想が表れている部分なのかもしれません。
なかなかの少数派ですが、詰組ありの堺型は私は好きです。
右面小屋根側
枡合:『牡丹に唐獅子』
左面大屋根側
枡合:『唐獅子』
虹梁:『吽の龍』
左面小屋根側
枡合:『牡丹に唐獅子』
木鼻
上が右面、下が左面
木鼻:『阿吽の唐獅子・獏』
大屋根側は2段の構成になっています。
車内枡合・花戸口虹梁
車内枡合:『牡丹に唐獅子』
花戸口虹梁:『阿吽の龍』
二匹の龍が向かい合っています。珠取りかと思いましたが、そう言う訳ではないようです。
脇障子
脇障子:『合戦譚』
三枚板
正面:『加藤清正の雄姿』
雑兵を軽々と持ち上げています。
右面:『後藤又兵衛虎退治?』
和藤内虎退治かと思ったのですが、天照皇太神宮の護符を持っていないので、何とも・・・
後藤又兵衛の虎退治で、右手に持っているのは日本号の槍、と見るのが正しいでしょうか?
左面:『佐久間玄蕃』
この地車の三枚板が迫力・凄味に溢れているのは良い目の影響が大きいと思います。
最近の修復では白目に黒目の点だけとなるのが通例ですが、オリジナルに対して忠実に、茶色の光彩までしっかりと再現しているところが大変好印象です。
角障子
角障子:『谷越獅子』
斜め後方を向くように取り付けられています。
この辺りは大阪市桑津地車と同様の設計思想です。
摺出鼻
摺出鼻:『松に猿』
旗台
旗台:『力神』
扇に今?若と書いてあります。この地車を新調した村の手がかりとなるかもしれません。
勾欄合・虹梁
前方
勾欄合:『牡丹に唐獅子』
縁葛:『合戦譚』
後方
勾欄合:『牡丹に唐獅子』
縁葛:『合戦譚』
右面
勾欄合:『牡丹に唐獅子』
縁葛:『合戦譚』
左面
勾欄合:『牡丹に唐獅子』
縁葛:『合戦譚』
腕木
腕木:『阿吽の唐獅子』
持送り
前方:『阿吽の唐獅子』
後方:『松に猿・竹に虎』
平側:『山水草木』
現存する堺型の殆どは肩背棒が取り付けられていますが、本来は閂が出ているのみが堺型のオリジナルのスタイルです。(葛城市勝根地車を検索してみてください。)
堺市の旧市地域ではそれで良かったかもしれませんが、他地域では閂だけでは曳行に差し支えたものと思われます。殆どの堺型は後の時代に土呂幕を切り欠く等して、肩背棒を強引に取り付ける改造が施されています。
ところが、この地車を含めた橿原市市場西垣内地車・大阪市桑津地車の3台はオリジナルの状態から肩背棒が取り付けられるよう、柱から貫腕が出されています。
だから何だ?と思われるかもしれませんが、擬宝珠勾欄堺型が作られていた末期には製作大工も肩背棒に対する需要を理解していた。ということがこの点から伺えます。
土呂幕
前方:『合戦譚』
先ほどの話に引き続いて、この場所も。
堺型の殆どが火燈窓形状の土呂幕に閂が出ている仕様とされているのに対し、この地車は扉式土呂幕で閂は無しとされています。
(例外はありますが)黎明期から永く続いて来た堺型の基本的仕様は最終生き残ることが出来ず、住吉型へと続く使い勝手の良い仕様に画一化されていったのだろうと思います。
後方:『合戦譚』
右面:『合戦譚』
左面:『合戦譚』
下勾欄
下勾欄:『波濤に鯉』
台木
右面:『波濤に鯉』
左面:『波濤に鯉』
改修で作り直されています。オリジナルの題材も鯉だったのかな?
金具
①破風中央:『雲海に宝珠』
②破風傾斜部:『昇龍』
③破風端部:『波濤』
④垂木先:『菊紋』
⑤縁葛端部:『波濤・玄武』
⑥肩背棒先:『若・中』『上田・北』の文字。
⑦曳綱環:『菊紋』
いかがでしたでしょうか。
どの村が新調し、どのような経路で橿原市までやってきたのか謎ですが、各所の仕様や獅子噛だけが改修されている点など、興味深い箇所が満載の地車でした。
なかなかタイミングが難しいかもしれませんが、前方の獅子噛やオリジナルを尊重した目玉の三枚板は非常に良い作品だと思いますので、見物をオススメいたします。
最後までご覧いただき、ありがとうございました。