神戸市北区 有馬上之町地車

皆さんこんにちは。

先日車の点検があり、兵庫の山間に行く機会がありましたので、そう言えばついでに寄ってみようとのことで、久々に有馬の地車を見に行ってきました。

私が初めて訪れたのが2011年ですので、 10年ぶりの見物となりますが、当時分からなかったことも今では色々考えつくことがあるので、見ていて非常に面白い地車でした。

それではご覧ください。

神戸市北区 有馬上之町地車

◆地車詳細
形式:一枚屋根型
製造年:江戸時代
改造年:不明
大工:不明
彫刻:相野伊兵衛

内部に昭和3年8月1日・昭和34年5月に修繕・修理したとの記載あり。
地車本体ではなく、上屋のことと思われる。

有馬温泉のメインストリートを金の湯を越えてもずっと登って行ったところ。
『有馬土仙人はなれ』というお店の横にひょっこりとお堂が現れます。

姿見

前方より

地車が社殿になることは事例としていくつかありますが、屋根周りのみ活用されるような例もある中で、この地車は躯体のほぼ全てをそのまま社殿として再利用しています。

斜め前より

これは地車だったのか太鼓台だったのか、はたまた二枚屋根だったのか一枚屋根だったのか、過去に色々議論がなされたようです。

理由は後述しますが、私は元は一枚屋根タイプの地車だったと考えます。
外駒・内駒までは分かりませんが、外駒の可能性も全く無い訳ではないと思います。

斜め前より

開口部にそれぞれ障子が追加されており、必要に応じて開閉できるようになっています。
土呂幕周りは左面側のみ開放出来るようです。

破風

中央二分割の破風、桁隠しは取り付きません。
勾配は比較的緩やかです。

折屋根の構造になっています。

堺型ではよく見ますが、その他の形式では珍しい仕様です。
この地車が元・担ぐタイプの山車だったのであれば、担いだまま軒スレスレをくぐるような器用なことは出来ないと思いますし、そこまでして大きいサイズの山車を製作するとはあまり考えにくいですので、これは曳くタイプの山車だったのではないかと推察できます。

枡組

シンプルなものです。
枡組の下には台輪が設けられています。

鬼板

前方:『獅子噛』

この表情は迷う余地なく、相野伊兵衛師の作品と言えます。
と言うことは製作年代も自然と江戸時代だろう、という考えに至ります。

相野の彫刻・一枚屋根の地車と言えば枚方市尊延寺の地車を思い出しますが、この地車もよく似たタイプだったのではないでしょうか。

後方:『獅子噛』

片目が取れてしまっていますが、残っています。

懸魚

前方:『鳳凰』

正面向きの胴体で鳳凰が彫刻されています。

現状無いので、この地車が元は二枚屋根だったために無いのか?とも考えましたが、取り付けに関連しそうな金物が残っているので、元はあったと考えられます。
他にも後方側に車板・枡合・木鼻の彫刻があることや、何より後方の柱に桁を差し込むホゾ穴が無いことから、一枚屋根の地車だったと推察できます。

車板・枡合

前方
車板:『唐獅子』
枡合:『阿の龍』

後方
車板:『唐獅子』
枡合:『吽の龍』

阿吽になっているので、前後で対と見て良いでしょう。

枡合

右面:『阿の麒麟』

左面:『吽の麒麟』

こちらも左右で阿吽になっています。

木鼻

右前:『阿吽の唐獅子・獏』

右後:『阿吽の唐獅子・獏』

左前:『阿吽の唐獅子・獏』

左後:『阿吽の唐獅子・獏』

妻側が唐獅子・平側が獏で統一されています。

勾欄

勾欄合・縁葛に彫刻はありません。

社殿にする際に全周回っていたと思われる勾欄を手前で切断して脇障子を建てたため、不自然な位置で勾欄が切れており、後方側の擬宝珠の親柱も完全に下まで下りきっていない中途半端な納まりになっています。
このように擬宝珠の親柱は後付け加工した様子がありますが、金具の色的に、後から擬宝珠を新調したとは思えないので、前方は撥勾欄・後方は擬宝珠だったのではないかと考えます。
他の例では灘区新在家地車や三田市北濱地車がそのような仕様になっており、有り得ない話では無いと思います。

菊紋と左三つ巴紋になっています。垂木にも左三つ巴紋があります。
温泉神社の社紋は左三つ巴紋ですので、合致するのではないでしょうか。

土呂幕

土呂幕には彫刻がありません。
隅木下部に吊り輪があることも踏まえて元は幕式だったと思われます。(枚方市尊延寺地車も縁葛彫刻がなく幕式になっており、似たような姿見です。)

肩背棒がついていたような跡は全くなく、金具もなければ土呂幕を貫通していたとしても位置が低すぎるので、元より肩背棒は無かったのではないでしょうか。すなわち、綱で曳き、梃子で舵を取るタイプだったと考えます。(腰回りは三重県名張市本町地車のような見た目だったのではないでしょうか)

社殿にする際に台木が取り払われており、現在では石の上にバタ角を敷き、その上に乗っている状態です。
ここでも考えられるのが、担ぐタイプだったのか曳くタイプだったのかという話で、この地車が担ぐタイプの地車であった場合、写真で見えている横架材の下部・・・柱の足元にもう一つ横架材が欲しいところです。
担ぐタイプの山車は柱を直接地面につけて本体の荷重を受けるため、通常は地面から最初の横架材までの距離は短く設定されています。
人間が担ぐものですから、担ぎ下ろした際に4本の柱が均等に地面に下りるようなことは殆どなく、大概1本か片側の柱に偏荷重がかかるため、柱単体の距離が地面から長ければ長いほど柱を折損するリスクが高まります。
柱の下部を多めに切った可能性はないかとも考えましたが、これ以上柱が下部に長いと、平側の土呂幕が正方形になってしまい、おかしな姿見になってしまうので、それは無いかと思います。

いかがでしたでしょうか。

このような地車が有馬に存在していることは非常に面白いと思います。
豊臣秀吉が有馬温泉を復興したことは有名な話ですが、その影響は大いにあったと思われ、1798年発刊の摂津名所図会には既に山車の絵が登場していることから、江戸時代には既に大阪の文化がよく持ち込まれていることが伺えます。
また、彫刻師だけに注目して見てみると、明治や大正など、後の時代になってから大阪の文化が持ち込まれたのではないことは、上之町地車が相野一門の彫刻を有しているだけでなく、有馬温泉神社に相野一門の彫刻があることも良い証拠になるかと思います。

更に有馬の地に地車があるということは、大阪から有馬までの道中や近隣にも当然相互に影響を与えている訳で、大阪から有馬街道を辿って行くと、宝塚・名塩、山口町・岡場、少し北方へ行けば三田と、地車を所有している村がありますが、山口町には江戸時代から地車(壇尻)があった記録があり、宝塚も相野一門など浪花彫刻を持つ地車が存在しています。また、三田にも現役の江戸時代製作の地車があります。(岡場・名塩は明治以降にこれらの村に続いて始めたのではないでしょうか)

という訳で、社殿に改造され、気軽にいつでも見ることが出来る上之町地車ですが、江戸時代から大阪と繋がりがあった証拠として、文化財的価値は非常に高いと私は思います。

皆さんも有馬を訪れた際は是非、少し山の上まで足を運んで、この地車に会いに行かれてみてください。
最後までご覧いただき、ありがとうございました。

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