南河内郡太子町科長神社 東條地車

皆さんこんにちは。

様々な地域の地車を記事にしておりますが、まだ1台も太子町の地車について記事にしていませんでしたので、今回は太子町の地車をご紹介したいと思います。
太子町の地車はどれも個性豊かで、どの地車から記事にしようか迷いますが、まずは大阪府下において現役最古の地車である東條地車をご紹介したいと思います。

東條地車が現役最古であることが判明したのは2015年の改修の時で、1787年(天明7年)の墨書きが枡合の裏から発見されました。
その墨書きが発見されるまでは、同じ太子町の大道地車から1807年(文化4年)の銘札が見つかっており、府下現役最古と言われていましたが、それより更に20年も過去に製作されたことが判明し、発見当時はかなり話題となりました。

それではご覧ください。

南河内郡太子町科長神社 東條地車

◆地域詳細
宮入:科長神社
小屋所在地:東條集会所に隣接

◆地車詳細
形式:舟型
製造年:1787年(天明7年)
購入年:文政年間
大工:不明
彫刻:佐武宗七
歴史:太子町永田→太子町東條

姿見

左が前方、右が後方

大阪府下に現存し、船体の形状を残したままの舟型地車3台のうちの貴重な1台です。
舟とは言え、駒を取り付けて曳く必要があるため、ベースは地車と同じ構造で、台木の上に船体を乗せた構造をしています。

さて記事を読み進める前に、まずは現役最古の地車・数少ない舟地車が何故太子町にあるのか、太子町の地車文化の歴史について触れておきたいと思います。

太子町(山田)の地車文化の発展については、永田町の豪商である田中家が影響しています。

田中家は油屋で、石川を経由した水運にて大坂(天満)へ菜種油を出荷し、富をなしていました。
当時の天満には元禄年間(1688~1704)から上荷茶船仲間(大坂の河川における荷物運搬業者の仲間)が所有していた大変豪華な舟形山車『天神丸』(現在も大阪くらしの今昔館にて保存・展示)があり、天神祭にて曳行されていました。
当然、田中家も天神丸を含めた大坂の地車文化のメッカである天満の地車に見て触れる機会があり(田中家の『永代帳』には1802年に天神祭を見に行った記録も残っている)、その財力を活かして地車を作らせ、地元へ地車文化を持ち帰ったと思われます。

何故舟型地車を製作したのかという点については、天神丸の影響力も然ることながら、科長神社の神功皇后生誕の地伝説が後押ししている可能性もあり、江戸時代の書物『摂陽奇観』(著:浜松歌国)には楽車(だんじり)の題名で「神功皇后の三韓征伐時における磯良の神・住吉の神などが舟上で舞ったのを真似た」という記述が残っていることから、より本格的かつ地元の所縁に近い舟地車の文化を持ち帰ったのではないか、とも考えることが出来ます。
田中家の影響力の結果、永田地車(現・東條地車)が1番目に作られ、後屋地車、2代目永田地車(1974年に消失)、と一時は3台もの舟地車が存在する地域となりました。

天満の地車文化ですが、江戸・明治にかけて火災が多発(天神丸も1792年に半焼となる)したことにより、多くの地車が焼けてしまっていますが、田中家が太子町に地車文化を持ち帰ってきたことにより、天満では焼失してしまった貴重な歴史の証拠が太子町で生き続けていると言えます。
現存する地車の製作年代や構造から推し量ることしか出来ませんが、南河内地域における地車文化の発展において太子町の地車が原点的存在で影響を与えたことは間違いないと思われます。

南河内地域特有の拡声器を用いた曳唄祭り・電飾提灯の飾りをしている影響で、表面上だけ見ると周辺の地域と曳行スタイルにおいて大きく差がないように見えてしまいますが、あまり難しいことを考えなくとも、そもそも科長神社の地車祭は天神祭と同じ時期に行われますし、天神囃子に似たリズム(コンコン・チキチン×3)の囃子を時より聞くことも出来るうえ、場面により手打ちをしている村もあれば、掛け声についても「こりゃ、おーたー、おーたー」といった様子で大阪方面の地車曳行時の掛け声と似ていること等から、大阪・天満方面との関係性を容易に感じることが出来ます。

そして、三韓征伐と舟地車の繋がりを理解したところで、一つ面白い点に気づきます。

我々は船体の構造を持つ地車を一括りに舟型地車と言いますが、天神丸の船体は海御座船・安立町七丁目地車の船体は弁財船、と海舟(波を切るために船底が尖っているのが特徴)の形状になっていることに対し、東條地車・後屋地車の船体についてはどちらも川舟(高瀬舟風で、船底を平らにしてなるべく浮力を得る、浅い水深でも底を擦らないようになっているのが特徴)の形状をしています。
三韓征伐については当然海を渡っていますから海舟でなくてはならず、浮世絵の三韓征伐においてもしっかりと海舟が描かれていますので、本格派志向で舟地車を製作したにしては不思議に思ってしまう点です。

これは想像上の話ですが、船体については田中家が行っていた油の水運で繋がりがあった?川舟の大工に製作を依頼したのかもしれません。
答えは一生かかっても出ないと思いますが、そんなことを考えながら東條地車・後屋地車を見るとワクワクとした感情が沸き起こってきます。

側面より

柱は10本の通し柱になっていると思われます。
半分幕で隠れていますが、大屋根中央部の2本の柱の間には火燈窓の細工が施されています。

全長は6m程度でしょうか?船体があることにより非常に長い車体になっています。

斜め前より

屋根周りは支輪等があるため社殿風で豪華に見えますが、石川型のような重厚な枡組は組まれておらず、あっさりとした印象を受けます。

斜め後より

東條地車は船首に引き出しタイプの梃子が備わっているため、後屋地車とは異なり、後梃子がつきません。

破風

滑らかな曲線の美しい破風で、桁隠しはつきません。

古い大阪方面の地車は比較的蓑甲の間隔が大きく、天神丸もそのようになっているのですが、東條地車のものは間隔が小さく、大阪方面由来の破風・・・といった印象はあまり受けません。

枡組

右面前方

左面前方

三段で、牡丹・阿吽の唐獅子・阿吽の龍で構成されています。
他に書く場所がないのでここに書きますが、木鼻上部の台輪は金具ではなく、金塗りになっているのが特徴的です。

鬼板

上から
大屋根前方:『牡丹の断面に五瓜に唐花紋』
大屋根後方:『牡丹の断面に五瓜に唐花紋』
小屋根:『牡丹の断面に五瓜に唐花紋』

三面とも獅子噛ではありません。
天満市場地車や岸和田型地車に見られる経の巻(3本の鳥衾)ではなく、1本の鳥衾になっている辺りが尚更天神丸に影響されたのではないかと感じる部分です。

懸魚

大屋根前方:『鳳凰』

大屋根後方:『飛龍』

小屋根:『鶴』

懸魚は痛みが激しかったのでしょうか?彫り替えられているようです。
恐らくオリジナルを忠実に再現していると思われます。

車板・枡合

大屋根前方
車板:『陳楠』
枡合:『猿』

大屋根前方は虹梁が中央部でグイッと持ち上がっており、枡合が分割されています。

大屋根後方
車板:『西王母』

小屋根
車板:『青龍』
枡合:『鶴』

車板は大屋根の前後のみ人物が題材となっており、小屋根は青龍。人物の彫刻点数は少なめです。

枡合

右面大屋根側
枡合:『花鳥風月』

右面小屋根側
枡合:『花鳥風月』

左面大屋根側
枡合:『花鳥風月』

左面小屋根側
枡合:『花鳥風月』

平側の枡合は、彫刻点数が少ないこの地車の最も目に触れる部分で、貴重なオリジナルの彫刻が残っています。
徹底的に彫り抜かれているので、欠損してしまっている部分も多いですが、とても繊細で美しい彫刻です。

木鼻

上が右面、下が左面
木鼻:『阿吽の唐獅子・獏』

基本的には大屋根の最前方と最後方が獏になっているようですが、左面だけ獏が大屋根の中間部にも存在し、左右で数が異なっています。
いずれの唐獅子も耳が寝ており、獏は鞘耳になっているのが特徴です。

水引幕

前方:『竹に虎』

右面:『牡丹に唐獅子』

左面:『牡丹に唐獅子』

地車本体もですが、幕も古そうな作品です。
製作年等は分かりませんでした。

勾欄合

勾欄合

四周は廻っておらず1スパンだけですが、擬宝珠勾欄が取り付けられています。
勾欄合の彫刻はありません。

脇障子

脇障子:『鶴・亀』

縁起の良い生き物のセットです。

見送り幕

見送り幕

刺繍のないシンプルな幕です。

船首

大工の技術の高さをひしひしと感じる部分で、非常に複雑な曲線をしています。

船首までしっかりと甲板が張られています。

船体・台木

右面

左面

台木は一般的な地車と同じ作りをしていますが、高さ方向では半分くらいの寸法しかありません。
車軸は駒の遊びをより大きく持たせるためか、後方は外部まで貫通して軸穴が彫られています。

船尾

船尾にかけて船体は上に向かって跳ね上がっています。
半円形の肩背棒が後方に取り付けられており、必要な場面に応じて一般的な地車のように肩を入れたり、乗ったりします。

後方には磯長(しなが)丸と書かれた金具が取り付けられています。

金具

①破風中央:『唐草模様』
②大屋根後方蓑甲傾斜部:『昇龍』
③破風傾斜部:『昇龍』
④破風端部:『唐草模様』
⑤小屋根虹梁:『波濤に宝珠』
⑥垂木先:『東』の文字
⑦船首:『昇龍』
⑧船体:『波濤』

いかがでしたでしょうか。

何故こんな山奥に舟型地車が?不思議だなぁ・・・で思考停止してしまうには勿体なく、古い歴史がありながら地車文化発展については様々な理由がしっかりと明らかになっていますので、それを踏まえて地車を見ると大変面白く感じることができます。

交通手段も限られており、なかなか厳しい山間の地域で行われる祭礼ですが、原点に限りなく近いだんじり祭りを見るために、まだ見たことが無い方は是非訪れてみてはいかがでしょうか。
また機会を見て、他の太子町の地車の記事も書きたいと思います。

最後までご覧いただき、ありがとうございました。

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