南河内郡太子町科長神社 後屋地車

皆さんこんにちは。

前回の東條地車に続き、勢いに乗って後屋地車の記事も書きたいと思います。

太子町は3台の舟型地車が存在していた地域ですが、後屋地車はその3台の中でも最も新しく作られた地車であり、太子町5台の地車の中でも(永田町が舟地車だった頃と比較)最も新しい作品ではないかと思われます。
製造年ははっきりとは分かっていませんが、明治11年製の御幣串が残っていることから遅くとも明治11年には製作されていたと考察されています。

後屋地車が舟型を製作した理由としては、東條地車の記事でも記述した永田町の田中家の影響によるものと云われています。
田中家は1689年(元禄2年)に永田町へ移るまで後屋で製油業をしており、永田町へ移ってからも製油業に必要な大型水車の動力として後屋の車池・中池から水路を引いていたことから、田中家が後屋地車製作の際にも関与し、舟型地車を作らせたと考えられています。

それでは写真と共に後屋地車の詳細をご紹介します。

南河内郡太子町科長神社 後屋地車

◆地域詳細
宮入:科長神社
小屋所在地:後屋池ほとり

◆地車詳細
形式:舟型
製作年:江戸末期~1878年(明治11年)
大工:不明
彫刻:彫又一門

参考)製造年・後屋地車製造の由来について
『平成16年度企画展 科長神社の夏祭りとだんじり~山田の船だんじり出現の背景~』 発行:太子町立竹内街道歴史資料館

姿見

左が前方、右が後方

船首にかけての絞り込みが控えめのため、どっしりと構えている印象を受けます。
そして、何と言っても後方から見た時の戸立の龍は凄い存在感です。
焼失してしまった二代目永田町の舟地車は船首に龍の彫刻がありましたが、後屋地車は後方です。

東條地車と比較すると、屋根まわりの組物の豪華さが目立ちます。また、台木は一般的な地車と同程度の高さ寸法があります。
柱は8本で、石川型と同じ仕様です。

斜め前より

改修前は台木の前端程度の位置で肩背棒(横架材のみ)がありましたが、撤廃されています。

斜め後より

後ろ梃子が取り付けられているのが特徴です。

破風

丸みを帯びた破風で、むくりが効いている辺りから石川型地車に近しい印象を受けます。

枡組・台輪

枡組:『阿吽の龍・牡丹』
台輪:『牡丹』

東條地車より一段多い四段構成になっています。
台輪にも牡丹の彫刻が施されており、より豪華な仕様です。

鬼板

上から
大屋根前方:『鍾馗の鬼退治』
大屋根後方:『猩々』
小屋根:『?』

御幣に隠れてよく見えませんが、大屋根前方の鍾馗の表情から彫又一門の作品であることが伺えます。

懸魚

大屋根前方:『鶴』

大屋根後方:『鷲』

小屋根:『猿』

珍しく神獣ではなく、どれも現実に存在する動物のみで構成されていました。

車板・枡合・虹梁

大屋根前方車板:『天乃岩戸』

全ての彫刻のうち、唯一この場所だけ日本の神話が題材に起用されました。

大屋根前方
枡合:『二十四孝 漢文帝・二十四孝 蔡順』
虹梁:『二十四孝 ?』

枡合・虹梁には全面とも二十四孝の題材が採用されています。全て合わせると22か所彫刻するスペースがありますので、2つの題材を除いて彫刻されていることになります。
垂れ幕が飾ってあったので、虹梁はよく見えず。

大屋根後方車板:『松』

小屋根
車板:『唐子遊び』
枡合:『二十四孝 丁蘭・二十四孝 姜詩』
虹梁:『二十四孝 董永』

枡合・虹梁

全体図
柱から桁までの区間がびっしりと枡組で覆いつくされています。

右面大屋根側①
枡合:『二十四孝 孟宗・二十四孝 黄山谷』
虹梁:『二十四孝 唐夫人』

右面大屋根側②
枡合:『二十四孝 曾参・二十四孝 王祥』
虹梁:『二十四孝 朱寿昌』

右面小屋根側
枡合:『二十四孝 楊香・二十四孝 ?』
虹梁:『二十四孝 剡子』

左面大屋根側①
枡合:『二十四孝 王褒・二十四孝 張孝兄弟』
虹梁:『二十四孝 郭巨』

左面大屋根側②
枡合:『二十四孝 田真兄弟・二十四孝 呉猛』
虹梁:『二十四孝 大舜』

左面小屋根側
枡合:『二十四孝 陸績・二十四孝 庾黔婁』
虹梁:『二十四孝 黄香』

十二支のように法則性があるものではないので、虹梁に採用された題材は大きく彫刻されてラッキーといったところですね。

木鼻

上が右面、下が左面
木鼻:『阿吽の獏・牡丹』

生き物は全て獏で統一されています。
籠彫りの牡丹は彫刻師の技術の高さが伺えるもので、取り付けられている地車を見ると目を惹きます。
上下二段構成ですが、大屋根後方の柱のみ小屋根破風と干渉するため一段となっています。彫刻は左右で異なり、右面は獏、左面は牡丹です。

水引幕

前方
水引幕:『群仙図』

太子町の地車は宮入の時にだけ年代モノの水引幕を取り付けますので、幕好きにとって宮入は見逃せないものとなります。

右面
水引幕:『群仙図』

左面
水引幕:『群仙図』

チチ・フチにも刺繍が施されており、かなり豪華な仕様になっています。

見送り幕

見送り幕は無地ですが、チチ・フチの刺繍は施されています。

脇障子

脇障子:『松』

船体

船体は東條地車同様に川舟の形状をしており、前方には格納可能な梃子棒が仕込まれています。
後屋地車も川舟を作る大工に船体の製作を依頼したのでしょう。

船首部分は元々は角ばった形状をしていましたが、いつかの改修で丸みを帯びたものに変更されています。

後方は東條地車よりスパッと切れている印象を受けます。
台木の金具は前方が『後屋』に対し、後方は『後屋丸』になっています。

戸立:『宝珠を掴む青龍』

東條地車は磯長丸と文字の金具が取り付けられていましたが、後屋地車には立派で大きな龍の彫刻が取り付けられています。
目の届く高さに一枚モノの大きな作品が取り付けられていますので、大変目を惹きます。

台木

右面
台木:『波濤』

一般的な地車でも見慣れた角台木になっています。

左面
台木:『波濤』

金具

①大屋根前方破風中央:『唐草模様・唐獅子』
②小屋根破風中央:『鳳凰・波濤』
③破風傾斜部:『木瓜紋・昇龍』
④破風端部:『波濤』
⑤垂木先:『木瓜紋?』
⑥船首付近
⑦前方台木端:『後屋』の文字
⑧後方台木端:『後屋丸』の文字

いかがでしたでしょうか。

同じ舟型でも歴史が深くシンプルな構造の東條地車も魅力的ですが、後の年代に作られたことでより構造が確立され豪華な仕様になって製作された後屋地車もまた別の方向性で魅力的な一台だと感じました。
この二台を見ていると、なお一層焼失してしまった永田町の舟型地車が惜しく思われ、三台の舟地車が並ぶ姿を一目見て比べたかったと思ってしまいます。

木造和船を作る専門業者も今となってはおらず、他の形式が一般的な地車として普及している現代において舟型地車が今後登場する可能性は無いと思われます。天満より太子町へ持ち帰られ、その後天満では失われてしまった舟型地車の文化はまさに遺産と呼ぶべきもので、今後も絶えることなく継承されることを祈りたいです。

最後までご覧いただき、ありがとうございました。

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