東大阪市菅原神社 新家地車

皆さんこんにちは。

今回はつい先日修理を行うために搬出された東大阪市新家地車をご紹介したいと思います。

この地車は泉大津市田中町の先々代にあたる点で、マニアの方からの認知度が高いのではないでしょうか。

濱八町の地を離れてから90年近く経ちますが、この地車が活躍していた頃の写真に残っていない明治~大正時代の濱八町は、当然今のように全町折衷型ではなく、田中町…現・東大阪市新家(大阪型)、宮本町…現・東大阪市長田中(住吉型)、上之町…現・羽曳野市西浦(神戸型改造の住吉型)、下之町…現・大阪市桑津(堺型)、西之町…現・東大阪市横枕(住吉型)、上市町…現・宝塚市小林(板勾欄型)、出屋敷町・元町…売却され現存不明、といったように各町多種多様な地車を所有していました。

濱八町と言えば地車同士をぶつけるカチアイ…そしてカチアイの古い記録としては、大正4年に下之町が田中町に側面からカチアイをし、傷害事件になったという話が残っていますので、この各町多種多様な地車を所有していた時代もカチアイは行われていたということになります。
当時は街並みも田んぼが多く、道路の整備状況もそれほど良くなく、駒の技術もハイテクではないと思いますので、今ほど勢いのあるカチアイでは無かったのではないかな?とは思いますが、この大正4年の事件では田中町が横転していますから、半端にぶつけただけではそうはならず、なかなか想像に難いところです。

さて、そんな昔の濱八町でこの地車が活躍している姿に思いを馳せながら、さっそく本題へと移りたいと思います。
修理の予定については私も特に知らなかったので、画像は全て2016年に撮影したものを使用しています。

それではご覧ください。

東大阪市菅原神社 新家地車

◆地域詳細
宮入:菅原神社
小屋所在地:神社境内
歴史:新家は天正13年(1585年)の豊臣秀吉の紀州征伐により離散した根来寺所属の武士、規矩(きく)氏によって開かれた土地と伝わっている。
元和2年(1616年)に規矩九右衛門が弟の新三郎と共に来村し開発して成立。開発当初は根来新家村とも称し、その後は長田新家村とも称していた。
規矩氏4代目の庄左衛門は幕府御用商人で、屋号を菱屋といい、その子である岩之助は、宝永元年(1704年)の大和川付け替え後に長瀬川・楠根川・玉串川の旧河床68町あまりを新田開発したので、各新田は菱屋西・菱屋中・菱屋東と称された。菅原神社の石鳥居には「元禄戊寅十一年九月吉日願主 菱屋庄左衛門」の銘がある。

◆地車詳細
形式:大阪型
製造年:明治20年頃?
購入年:昭和5年(1930年)
大工:不明
彫刻:彫清一門
歴史:?→泉大津市田中町→東大阪市新家

参考)
歴史について
角川書店 『角川日本地名大辞典 27 大阪府』

姿見

左が前方、右が後方

長方形の姿見で、破風・懸魚の表面積が大きいので、屋根まわりがボリューミーな印象です。
泉大津市田中町時代の名残として、縁葛の切れ込みや後ろ梃子の跡がそのまま残されています。

側面より

一階部分の天井高は低く、二階部分の天井高は高めになっています。
少々バランスが悪いので、元は一階部分の高さが今よりも高かったのではないかと思われます。

枡組・台輪が入り枡合・虹梁を構成している点や角柱など、住吉大佐の住吉型に大変似た構造をしているため、大工は住吉大佐との説もありますが、銘は見つかっておらず、また破風形状も異なるため、別人だろうとの説もあります。私も住吉大佐の製作ではないように思います。

他にも住吉型に近い構造を持ち、大工が住吉大佐か否かと言われている地車としては、東大阪市鴻池地車・川俣地車等が挙げられます。

細かいところで見ると、特徴的な部分として、縁葛の上下に縁板が入ることが挙げられます。
上側のみに設けるのが普通で、両方に縁板が設けられるものは少数派です。

斜め前より

腰回りを強引に下げていることが隣の西堤地車と比較してもよく分かり、肩背棒がまわっている位置が大変低いです。

斜め後より

この地車は他に類を見ないほど車高短であることが、一部のマニアには認知されています。
恐らくどこかの高さ制限をクリアするためと思われますが、詳細は私は分かりません。
よくある話として神社の鳥居がありますが、新家地車は菅原神社の鳥居を車高短にしても潜れないので、横をすり抜けて行き来しています。

破風

破風・葺地共に縦方向の長さが結構ありますので、独特の印象となっています。

枡組

一手先の組物が入ります。

鬼板

上から
大屋根前方:『獅子噛』
大屋根後方:『獅子噛』
小屋根:『獅子噛』

鬣の先のプラスドライバー感のある模様がありませんが、彫清一門の顔で良いと思います。
一度見たら忘れない強烈な顔で、黒田一門が次の田中町地車を製作する際に影響を受けたと言われています。

全体的に目玉のサイズが大きめで、飛び出しているので、今回の改修で改められるかもしれません。

大屋根後方のものが最も肉厚で、本来この顔が大屋根前方だったのではないかと思いますが、欠損の影響でしょうか?入れ替わっているように見えます。

箱棟

箱棟:『雲海』

懸魚・桁隠し

大屋根前方
懸魚:『五條大橋の出会い』
桁隠し:『武者』

弁慶が完全にそっぽを向いており、牛若丸に背後を取られている様が彫刻されています。
桁隠しの彫刻は木の色が異なるので、彫り直されていると思われます。カチアイで欠損したのでしょう。

小屋根
懸魚:『飛龍』
桁隠し:『武者』

小屋根側は良い表情をした飛龍がいます。
懸魚・桁隠しを人物の題材で合わせる・獣の題材で合わせる等はしていないようで、桁隠しは武者です。

車板・虹梁

前方
車板:『猿に鷲』
虹梁:『桜井の別れ』

車板の題材は次の田中町にも見ることが出来、図柄が全く同じことから、新調地車に取り付ける前に試作品を現地車に取り付けられたのではないかと言われています。

参考に・・・次の田中町地車の猿に鷲。

参考に・・・同じ図柄で黒田一門製作の元・泉大津市出屋敷町地車

車板:『大己貴命大鷲退治』

後方は日本神話の題材が採用されました。
刀が木製ではなく、金属?プラメッキ?の刀を使用しているのが拘りのようです。

枡合・虹梁

右面大屋根側
枡合:『牡丹に唐獅子』
虹梁:『武者』

右面小屋根側
枡合:『牡丹に唐獅子』

左面大屋根側
枡合:『牡丹に唐獅子』
虹梁:『武者』

虹梁の詳細な題材は分かりませんが、前方に合わせるなら太平記になるかと思われます。

左面小屋根側
枡合:『牡丹に唐獅子』

木鼻

上が右面、下が左面
木鼻:『阿吽の唐獅子』

全身が彫刻された唐獅子です。根本には子獅子がいるものも。

柱まわり

全景。

この地車は前の柱まわりに独特の細工が施されています。
補強的な意味合いから生まれた作品でしょうか。主たる存在理由は虎の後ろにある柱と柱を繋ぐ大きな前板ですが、それを隠すように虎、更に左右から柱を支えるように力神の彫刻が取り付けられています。

柱:『獅子の子落とし』

縦長の部材を活かした題材、かなりの数の獅子が居ますのでこれはこれで凄い作品です。

前板:『武に虎』

柱まわり人形:『力神』

右から左から支えるように配置されています。

天蓋

格子の天蓋が取りつきます。

間仕切り

間仕切り:『武者』

間仕切りの下部左右に持送りが取りつきます。

脇障子

脇障子:『甲賀三郎飛龍退治・?』

左右で関連性を持たせるのがよくある話ですが、反対側はよく分かりませんでした。
将来的に兜桁への発展を予感させるような、雲海の彫刻が入った部材が取り付けられている点にも注目です。

三枚板

正面:『朝鮮の役 加藤清正・金汝吻』

最も目立つ正面に日本側・朝鮮側のヒーロー的人物が配置されています。
住吉大佐の地車…伊丹市荒牧地車・宝塚市上安倉地車・大和高田市本町壱丁目地車にも似た構図で配置されている三枚板がありますが、あちら側の朝鮮兵は兜を被っていません。

右面:『朝鮮の役 ?』

先程上記した3台の住吉大佐製地車の三枚板に採用されている題材と構図が似ているため、『木村又蔵の勇姿』と言われているようです。

しかし、そもそも木村又蔵は、そんな取り分け朝鮮の役でピックアップして彫刻するような人物なのでしょうか?そのような浮世絵も見たことがありません。(と、言ってしまうと正面のような構図の浮世絵も見たことがないですが・・・)
木村又蔵だと判断するべき材料(家紋等)が私にはよく分かりません。知っている方いましたら教えてください。

左面:『曽我五郎時致 大磯驀進』

三面とも朝鮮の役で統一かと思いきや、こちらは曽我五郎で、だいぶ時代が前へ戻ります。
たまげて転げる脇役が場面を際立たせる良い仕事をしています。

角障子

角障子(前方)

前方側には人物の彫刻がありませんが、上側に唐獅子の彫刻が乗っているのがよく見えます。

角障子(後方):『朝鮮の役』

こちらも三枚板に絡めた題材と思われます。

勾欄合・縁葛

前方
勾欄合:『二十四孝』
縁葛:『山水草木』

前方のみ縁板は上側のみになっており、縁葛の題材も細かなものは彫刻されていません。
損傷しやすいことを見越してでしょうか?と言いたいものの、前梃子の切れ込みも左右不釣り合いで、後から切り欠いた感がありますので謎です。

この地車は田中町が新調したという記述を時々見かける気がしますが、田中町が新調したにしては後工作の跡が多いので、新品か中古かは分かりませんが既に完成していた地車を購入しているのではないかと私は考えます。

後方
勾欄合:『二十四孝』
縁葛:『武者』

右面大屋根側
勾欄合:『二十四孝』
縁葛:『武者』

右面小屋根側
勾欄合:『二十四孝』
縁葛:『武者』

左面大屋根側
勾欄合:『二十四孝』
縁葛:『武者』

左面小屋根側
勾欄合:『二十四孝』
縁葛:『武者』

持送り

前方:『武者』

後方:『武者』

前方は岩に、後方は松に乗る武者が彫刻されています。
そして、持送り・土呂幕だけニス塗りが行われています。

土呂幕

前方:『武者』

前方は彫り替えられているようです。昭和53年の修復時のものでしょうか。

後方:『平敦盛?』

右面大屋根側:『源平合戦』

土呂幕で源平合戦と言えば大概は義経八艘跳びや巴御前の勇姿となりますが、そうではないようです。

右面小屋根側:『源平合戦』

顔の雰囲気は熊谷次郎直実っぽいですが、後方の彫刻と関連するにしてはお互いそっぽを向いてしまっているので謎です。

左面大屋根側:『宇治川の先陣争い』

左面小屋根側:『宇治川の先陣争い』

台木

上が前方、下が後方

数年前の改修で、雛壇が取りつきました。
後方には後梃子の名残があるものの、旗設備(摺出し鼻や旗台)が無いあたりも、最初から泉州方面での曳行を想定して作られた地車ではなく、大阪方面での曳行を想定して作られた地車を泉州方面の曳行方法へ対応するために後から改造を施したと考える要因の一つです。

右面:『波濤』

後輪の車軸位置が少し前方に変更されています。
また、下勾欄の位置を強引に下方へ下げており、一階部分の高さを抑えていることがよく分かります。

左面:『波濤』

あまり着目されていない点かもしれませんが、この地車は懐はあるものの前梃子を差す程のスペースはなく、ペダル式のブレーキも取り付けられていないため、人力ブレーキしか制動方法が無い状態です。
そのためか、この地車はパフォーマンスを行う場面でもあまり激しく走ったりといった曳行はなされていないように思います。
台木の総取り換えも含め、この点も今回の改修で改められる可能性が高そうですね。

下勾欄合

右面:『波濤に千鳥』

左面:『波濤に千鳥』

金具

①破風中央:『唐草模様に梅鉢紋』 菅原神社の紋と言えば梅鉢紋ですね。
②破風傾斜部:『昇龍・降龍』 昇龍のみが多い中で、昇龍・降龍になっているのがポイントです。
③破風端部:『唐草模様』
④垂木先:『右三つ巴紋』 ここだけ右三つ巴紋になっているのが少し不思議、田中町の名残として大津神社の社紋は菊紋と左三つ巴紋なので、謎です。
⑤縁葛端部:『唐草模様』
⑥勾欄:『唐草模様』
⑦肩背棒先:『梅鉢紋』

銘板

『大修理施工 昭・五十三 天王寺西門前 梶内嘉三』と書かれています。

昭和53年に梶内だんじり店にて修理を行ったことが分かります。

いかがでしたでしょうか。

現時点まで大きな改造が施されずに存在してくれている地車として大変貴重なものではありますが、経年劣化は否めず、強引な改造もされていますので、新家の土地に合った扱いやすく綺麗に整えられた姿で戻ってくるのではないかと思われます。
また、彫刻も大変良い作品が揃っていますので、お化粧直しされた後にどのようになるか今から非常に楽しみですね。

最後までご覧いただき、ありがとうございました。

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