東大阪市長田神社 長田中地車

皆さんこんにちは。

前回は元・泉大津市濱八町の田中町地車として、東大阪市新家地車をご紹介しましたが、今回もそれに続いて同様に濱八町出身の地車として長田中地車をご紹介したいと思います。今後も暫く濱八町にいた地車をご紹介していくかもしれません。

長田中地車は泉大津市宮本町の先々代地車にあたり、昭和9年まで活躍していました。
丁度、元・田中町(現・東大阪市新家地車)と購入~売却の時期が似ており、同時期に濱八町で活躍していた地車ということになります。
写真には残っていませんが、この2台が昔はカチアイをしていたのだと考えると、面白いなぁと思います。

また、この地車は元・泉大津市宮本町の地車とは言いましたが、更に前に所有していた村があり、平野区の加美正覚寺が新調・所有していました。

この地車を売却した後、加美正覚寺は暫く地車を所有しておらず、平成9年に再び元・和泉市王子町より堺型地車を購入してやりまわしを中心とした泉州スタイルの祭礼を行うようになります。
もし、この地車をずっと手放さずに所有していたら今とは違う祭礼スタイルになっていただろう、と思えますので、その辺りも何だか運命的で面白いと思います。

それではご覧ください。

東大阪市長田神社 長田中地車

◆地域詳細
宮入:長田神社
小屋所在地:神社敷地内

◆地車詳細
形式:擬宝珠勾欄住吉型
製造年:1895年(明治28年)7月4日
購入年:1936年(昭和11年)9月
大工:住吉大佐
彫刻:小松一門
歴史:(明治28年~大正2年)大阪市正覚寺→(大正2年〜昭和9年・後2年保管)泉大津市宮本町→(昭和11年〜)東大阪市長田中

住吉大佐地車請取帳には
明治28年7月4日 二百九十円 正覚寺村
明治31年〜34年 楠根村大字長田 (中・西・東のどれかは不明、いずれにせよ現地車では無い)
明治34年9月 楠根村大字長田 (中・西・東のどれかは不明、いずれにせよ現地車では無い)
明治34年〜大正8年 宮本町 (この地車に関することと思われる)
大正8年9月20日 宮本町 (この地車に関することと思われる)
の記述が残されています。

姿見

左が前方、右が後方。

上地車らしいくびれのないスタイルです。
後方には後ろ梃子を差す穴が残っています。しかし、摺出鼻はありません。

提灯・金綱・幕・雪洞としっかりと飾り付けがなされているので、かなり重厚な印象を受けます。

一般に中之町・中町と呼ばれる地域でだんじりを所有している村は色々ありますが、ここまで堂々と『中』の文字だけが書かれた提灯を吊るしている村は無く、かなり印象に残ります。

側面より

過去に躯体一式・破風・前方土呂幕・台木を交換しているようですが、彫刻は大きく手が入れられていないので、オリジナルの要素は結構残っています。
四隅にしっかりと四本巻きをしているのも特徴ありますね。

斜め前より

長田中は少し前は?今も?夜のパレードの時にやりまわしのように走りながら角を曲がるようなことをしていたと記憶しています。

斜め後より

この地車の前後に作られ、現存しているものは河内長野市高向中町で、1ヵ月後の8月11日に引き渡されています。
かと言って似ているかと言われると、そうでもないです。

破風

全体的に終始曲線を描くような破風形状をしています。
破風板が交換されているので、少し木の色が異なり、オリジナルとは雰囲気が異なります。

枡組

一手先の枡組が入ります。

鬼板

上から
大屋根前方:『獅子噛』
大屋根後方:『獅子噛』
小屋根:『獅子噛』

三面とも獅子噛で統一されています。
光線の関係でなかなか思った方向から撮影できなかったのですが、この地車の獅子噛は三面とも結構異なる表情をしているように見受けられます。
特に小屋根側のものは大屋根のものとはかなり違いそうです。

箱棟

箱棟:『雲海』

懸魚・桁隠し

大屋根前方
懸魚:『雑兵掴む鷲』
桁隠し:『龍』

通常であれば鷲が掴んでいるのは猿のはずですが、なんと!武者になっています。
顔を間違えたか?と思いましたが、胴体にちゃんと鎧があるので間違いありません。彫刻師の遊び心でしょうか。

小屋根
懸魚:『猿に鷲』
桁隠し:『松に千鳥』

やはり鷲の相方は猿が落ち着きます。

桁隠しは前方に比べると少し取ってつけたような印象で、上端が破風形状に沿っていません。
下地車の懸魚のように上地車としては珍しく千鳥がいます。

車板・虹梁

大屋根前方
車板:『青龍』
虹梁:『唐獅子』

大きな一枚の青龍の車板は住吉大佐の上地車では象徴的な存在です。

小屋根
車板:『大己貴命大鷲退治』

後方には日本神話の題材。
懸魚を含め、この辺りの題材の構成は新家地車とも似ているなぁと思います。偶然でしょうか。

枡合・虹梁

右面大屋根側
枡合:『唐獅子』
虹梁:『波濤に龍』

右面小屋根側
枡合:『唐獅子』

左面大屋根側
枡合:『唐獅子』
虹梁:『波濤に龍』

左面小屋根側
枡合:『唐獅子』

車内枡合・虹梁

車内
枡合:『唐獅子』
虹梁:『唐獅子』

枡合・虹梁まわりは獣の題材で埋め尽くされています。

木鼻

木鼻:『唐獅子』

全身彫刻の唐獅子が全部で8体あります。
撮影角度が悪いですが、大屋根前柱に取りつく4つにはどれも子獅子がセットになっています。

小屋根後方のものは住吉大佐でありがちな全身彫刻の唐獅子ですが、他のものとは作者が異なるようです。

水引幕

水引幕:『五條大橋』

立派な幕を取り付けています。

脇障子

脇障子:『羽柴秀吉?・佐久間玄藩?』

三枚板まわりが賤ヶ岳の合戦になっており、佐久間玄藩・羽柴秀吉共に2回登場することになります。
本当かな?といったところですが・・・

三枚板・脇障子・角障子

まずは全景から。
編み込みが工夫されているので、正面からでも三枚板がよく見えます。

正面:『加藤清正 佐久間玄藩』

驚いた秀吉が相手になっていることが多いですが、この地車は加藤清正が迎え撃っているのが特徴です。

角障子:『武者』

右面:『毛受勝介家照の最期』

同じ題材は羽曳野市西之口地車にもあります。

角度を変えてもう一枚。

右面:『武者』

左面:『羽柴秀吉』

佐久間玄藩の乱入に驚く豊臣秀吉。

左面:『武者』

勾欄合・縁葛

前方
勾欄合:『太平記 櫻井の別れ』
縁葛:『太平記』

後方
勾欄合:『太平記』
縁葛:『太平記』

勾欄合の陣幕に三つ鱗紋が見えますので、北条氏です。
痛みが激しかったのか、後方の縁葛は彫り替えられているようです。

右面大屋根側
勾欄合:『太平記』
縁葛:『太平記』

右面小屋根側
勾欄合:『太平記 千早城・赤坂城の合戦』
縁葛:『太平記』

縁葛に丸に陰一つ鱗紋が見えます、これも北条氏関連か。

左面大屋根側
勾欄合:『太平記 湊川の合戦』
縁葛:『太平記』

波に沈む舟が見えます。太平記となると湊川の合戦でしょうか。
縁葛には中陰三階菱紋が見えます。これは小笠原氏?

左面小屋根側
勾欄合:『太平記』
縁葛:『太平記』

勾欄合は一部特定の場面を彫刻しているようですが、縁葛は特にモデルとなった戦いは無く、戦記モノをアレンジしたような印象です。

持送り

持送り:『唐子』

片方は損傷したのか彫り替えられています。

土呂幕

前方:『竹に虎』

彫り替えられています。
濱八町の古い地車は前方土呂幕を欠損していることが多いですが、昔は後梃子が土呂幕に突き刺さることもあったためのようです。
カチアイをする時間帯はあらかじめ土呂幕を開けていたそうですが、それでも突発的なカチアイで開けておらず、損傷するときは損傷したということでしょう。

昔のカチアイですが、現在よりもゆっくりと当たり、押し合いをするというものだったようで、いまよりもはるかに長い時間地車同士が接触していたようです。
昭和30年代までは正面・側面のカチアイもありで比較的自由な形態でしたが、昭和50年代以降に現在のように勾欄の当て板に後梃子を当てるといった様式が確立されたようです。当て板については昭和30年代には取り付けられている様子が写真から確認できますが、昭和17年の写真には写っていません。

また、カチアイはぶつけ合うこと自体が神事とみなされていたようです。確かにゆっくり当ててから押し合いをするという様は力比べの相撲のようにも見えます。神事と言うよりは賑わいの行事ですね。
双方の合意があればそれで済んだものの、合意が無ければ喧嘩となり、喧嘩をするためにカチアイをしに行くということもあったのでしょう。

時々、子孫繁栄を表現していると聞く気がしますが、恐らく警察からの中止要請を逃れるために後付けされた理由ではないかと思います。

後方:『?』

飲み物入れで見れず。

右面大屋根側:『武者』

右面小屋根側:『武者』

左面大屋根側:『武者』

左面小屋根側:『武者』

下勾欄合

右面:『波濤に兎』

左面:『波濤に兎』

側面土呂幕まわりは欠損がなく、非常に良い状態です。

台木

上が前方、下が後方
台木:『波濤』 

台木はオリジナルではなく、後方には梃子穴がありますが、現在は使われていません。

この地車を新調したのは正覚寺ですので、大阪の祭礼仕様に旗設備・梃子穴無しで作られたのではないかと思いますが、 宮本町時代には後梃子を使う必要があるために梃子穴が作られた。長田中でもそのまま残っていると言うことでしょうか。

田中町先代の新家地車も同様に旗設備がありませんので、昔の濱八町ではそこまで必須のものではなかったのかもしれません。

右面:『波濤』

左面:『波濤』

金具

①破風中央:『雲海に宝珠』
②破風傾斜部:『雲海』
③破風端部:『唐草模様』
④垂木先:『花菱紋』
⑤縁葛:『唐草模様』
⑥勾欄:『唐草模様』
⑦肩背棒先:『長田中』の文字。アルミ削り出しでなかなか強烈な印象です。

銘板

前方土呂幕の付近にあります。
住所表記が天王寺区なので、大正14年以降に修理で入場したことになります。比較的新しそうですが。

住吉大佐の銘板です。
正面三枚板横にあり、『細工人 大阪市住吉区住吉町 大佐』と書かれています。

製造年から考えると『住吉郡住吉村大佐』と書かれているのがあるべき姿なところではありますが、これについては後の時代に付け替えられたものと考えられています。

大阪市住吉区が出来たのが大正14年ですので、大正14年以降に住吉大佐に入場したことがまず分かります。
大正14年以降と言いますと、本家の川崎宗吉師も西だんじり屋の下川安次郎師も地車の製作は行っていましたが、それなりにご高齢になられており、請取帳の記述もまもなく終わってしまいます。
そして、大正14年以降の最後の方のページに宮本町や長田の記述がありませんので、修繕をしたのは川崎佐太郎師で、その際に付け替えた。と考えられています。

修繕時期としては、宮本町は昭和9年に西だんじり屋で次の地車を新調していますので、修理をしてから比較的すぐに新調してしまったか、昭和11年に長田中へ嫁いだ際に入場したかのどちらかだと思います。

いかがでしたでしょうか。

長田のだんじり祭りは21日・22日の祭礼日固定を守られていますので、どうしても年により見に行けたり行けなかったりすることがありますが、タイミングよく昼間に見ることが出来たのは幸運でした。
長田中はFacebookでも情報を発信されていますので、皆様もご興味ありましたら、予定を合わせて見学に行かれてはいかがでしょうか。

最後までご覧いただき、ありがとうございました。

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