
皆さんこんにちは。
今回は久しぶりに私の好きな河内長野の地車の記事を書きたいと思います。
一言に板勾欄型と言っても様々なタイプの作品がありますが、上原の板勾欄型は私が個人的に美しいと思っている作品の一つです。
大きな車体に大きな出人形を持ち、存在感のある一台です。
それではご覧ください。
河内長野市西代神社 上原地車
◆地域詳細
宮入:西代神社
小屋所在地:会所に併設
歴史:上原は平安末期から見える地名。元禄14年の村明細帳によれば、田畑50町余、家数56軒、うち役屋29軒、無役家17軒、後家隠居10軒、人数366、うち男171、女195、牛馬25とあり。寺ヶ池への水路の毎年初の通水時に惣作村、市村、野村の人足に酒2斗を振舞ったとある。鎮守は仲哀天皇宮・牛頭天皇宮。寺院は観福寺など3か寺。明治9年の人口289。
◆地車詳細
形式:板勾欄出人形型
製作年:明治10年頃
大工:河村新吾 (堀内市松経由で購入)
彫刻:彫又一門
参考)
地域の歴史について
角川書店『角川日本地名大辞典 27 大阪府』
姿見

左が前方、右が後方。
非常に大きな板勾欄型です。
平成3年に池内工務店にて改修を行ったため、屋根回り・柱・台木等、躯体が一新されていますが、それ以外はオリジナルが残っており、綺麗な状態を維持されています。

側面より。
大きな虹梁・出人形・下勾欄が特徴的です。
兄弟地車として、大阪市細田町地車・堺市高蔵寺地車があります。
サイズ感は異なりますが、堺市田園地車・四条畷市東中野地車・富田林市加太先代地車も、共通する特徴を持っていることから、ほぼ同時期に同じ大工が製作したと思われます。
破風

切妻破風です。
桁隠しは板勾欄型では少数派ですが、上原はオリジナルの状態でも桁隠しを有していましたので、元の状態を引き継いだ、ということになります。
枡組

隅行肘木に彫刻が施されているのもこのシリーズの地車ならでは。
鬼板

上から
大屋根前方:『獅子噛』
大屋根後方:『獅子噛』
小屋根:『獅子噛』
3面共獅子噛で統一されています。
平成3年の改修時に上丹生彫のものに彫り替えられましたが、オリジナルの獅子噛は西岡弥三郎師の作風がよく表れていました。
箱棟

箱棟:『雲海』
懸魚・桁隠し

大屋根前方
懸魚:『鳳凰』
桁隠し:『鶴』

大屋根後方
桁隠し:『雲海』

小屋根
懸魚:『猿に鷲』
桁隠し:『鶴』
車板・神額・枡合・虹梁

大屋根前方
車板:『散水草木』
神額:『牡丹に唐獅子』・『西代神社』の文字。
枡合:『龍』
虹梁:『?』

別角度から。

大屋根後方
車板:『山水草木』

小屋根
車板:『山水草木』
枡合・虹梁

右面大屋根側
枡合:『猩々』
虹梁:『夜討曽我?』

右面小屋根側
枡合:『牡丹』

左面大屋根側
枡合:『猩々』
虹梁:『平景清錣引き』

左面小屋根側
枡合:『牡丹』
木鼻

上が右面、下が左面
木鼻:『阿吽の唐獅子』
大屋根後方のみ全身、それ以外は半身になっています。
柱巻き・出人形

正面全景。

柱巻き・板勾欄:『賤ヶ岳の合戦 秀吉本陣佐久間の乱入』
明治の地車ならでは、賤ヶ岳の合戦の様子がダイナミックに表現されています。
出人形はかなりシャッフルされており、板勾欄に被ってしまうような状況のものもありますが、①前方左前のものを前方右前へ、②前方右前のものを左面前側へ、③左面後側のものを前方左前へ、④左面前側のものを左面後側へ移動すれば、板勾欄に被らずに、きちんとお互い向き合って戦うことが出来るような気がします。

右面
板勾欄・出人形:『賤ヶ岳の合戦』
外さないと乗り降りが出来ない位大振りな出人形がとても良いですね。


人形をアップで。

左面
板勾欄・出人形:『賤ヶ岳の合戦』
残念ながら車内は撮ることが出来ませんでしたが、天蓋彫刻があります。


出人形をアップで。
脇障子

脇障子:『桜井の別れ』
三枚板

正面:『飛龍退治』
『黄帝と蚩尤の戦い』と言われているようです。
話としては、応龍が蚩尤を倒し、黄帝を勝利へと導く。というものですが、蚩尤は右でしょうか?
Googleで蚩尤と検索すると、思っているイメージと何だか少し異なります。
飛龍・応龍退治は題材の元になったような浮世絵等を見つけることが出来ておらず、私も毎回悩んでいるところです。
そもそも、応龍は四霊(麒麟・鳳凰・霊亀・応龍)の一種で、何故退治される対象になっているのか疑問です。鳳凰退治や麒麟退治なんて題材は無いですよね…
三枚板に採用される題材で大人気の水滸伝では『入雲龍公孫勝』という人物が応龍を召喚出来るようですが、あくまで召喚であって、戦うようには描かれていないので、惜しいなぁ…と思っています。

右面:『大己貴命 鷲退治』

左面:『天竺の班足王』
角障子

角障子:『神功皇后 応神天皇併産す』
摺出鼻


摺出鼻:『牡丹に唐獅子』

飛獅子が摺出鼻の上に取り付きます。
旗台

台木:『力神』
貫腕

貫腕:『松』
模様ではなく、植物が彫刻されるのも特徴です。
持送り

持送り:『竹に虎』
土呂幕

前方:『竹に虎』

後方:『合戦譚』
土呂幕・下勾欄


右面
土呂幕:『合戦譚』
下勾欄:『宇治川の先陣争い』


左面
土呂幕:『合戦譚』
下勾欄:『敦盛呼び戻す熊谷次郎直実』
大きな下勾欄が特徴で、表現出来る題材の数を増やしています。
どちらも下勾欄を持たない地車では土呂幕に表現されるような題材で、贅沢な仕様です。
台木

右面:『波濤に龍』

左面:『波濤に龍』
台木は彫り替えられていますが、題材はオリジナルを引き継いでいます。
つい最近まで、細田町地車がオリジナルの台木を有していましたが、そちらも改修で見れなくなってしまいました。
金具

①破風中央:『唐草模様に宝珠』
②破風傾斜部:『昇龍』
③破風端部:『唐草模様』
④垂木先:『花菱紋』
⑤縁葛端部:『唐草模様』
⑥肩背棒先:『上原』の文字。
いかがでしたでしょうか。
オリジナルの面影を良く残しつつ、綺麗に維持されている一台だと思います。
上原地車は長野地区だけでなく、千代田地区への乗り入れも行っているので、祭礼期間中はよく見かけることが出来ると思いますので、是非注目して見てみてください。
最後までご覧いただき、ありがとうございました。
いつもすごい情報量と考察を拝見し、勉強させていただいております。
以前より堀内市松についての考察を他の記事とともに拝見し、地車見る際の参考にさせていただいていたのですが、記事に変化があったように見受けられたため何かあったのだろうかと思いコメントさせていただきました。
お答え可能であればご教授いただけると幸いです。
る 様
コメントありがとうございます。
当サイトで堀内市松の記述に関して変更を行ったことについてご指摘をいただいたのは初めてで、このことについて私の考えをお話出来ることを非常に嬉しく思います。
長い文章になってしまいましたが、私の考えの変遷をまとめましたので、お付き合いいただけますと幸いです。
以前まで私は、堀内市松の銘が出ている加太先代を基準に、堀内市松の関与が云われている地車のうち2台…上原・東中野が加太先代と共通する特徴を持っていること(隅行肘木に彫刻が入る・天蓋彫刻を持つ・框で囲われていない脇障子が取り付けられている)に着目し、堀内市松は一定の特徴を持たせたオリジナルの作品を作っていたのではないかと考えていました。
しかし、先人の研究者様が既に調査を行われておりますように、堀内市松は仲介業者としての説が濃厚です。
関与が云われている加太先代・上原・東中野・鶴山台は、細かい点で見れば共通点はあるものの、似た作品が量産されている様子が感じられず、鶴山台のように明らか住吉大佐の仕入れ地車と思われる作品も含まれていることから、私も堀内市松はやはり仲介業者だろう、との考えに落ち着きました。
また、その考え方に至るもう一つの決定打は、令和5年の築地本町5丁目地車の修理時に河村新吾の銘が出たことです。
これにより、様々な地車が河村新吾の作品として裏付け出来る可能性が出てきました。
河村新吾の銘が出ている更池・
向野・築地本町5丁目を比較してみますと、河村新吾は様々な仕様の板勾欄型を生み出していたことが分かりました。具体的に申し上げますと
大屋根下において
→人物は出人形、背景は板勾欄で表現(
向野・築地本町5丁目)or人物と背景を一体で板勾欄で表現(更池)脇障子について
→人形が乗る舞台付きの形状(
向野・築地本町5丁目)or框で囲われた脇障子形状(更池)といった点です。
中でも住吉大佐の作品とは大きく異なる点として、正面の板勾欄と柱巻きを一体の題材とする設計思想の作品があることが特徴、と私は考えています。
まず、銘入りの作品では
向野・更池がこれに該当します。銘なしの作品ですと非常に多くの作品が該当し、中でも市脇先代はこの設計思想に該当する代表例かと思います。
題材を賤ヶ岳の合戦とした作品は非常に多く存在し、上原・細田町・高蔵寺・東中野がこれに該当します。
更に正面板勾欄・柱巻きだけでなく、大半を統一彫りとする設計思想の作品もあり、若戎・小林がこれに該当します。
今回コメントいただきましたページの上原地車について、銘入りの作品と比較してみますと
正面板勾欄と柱巻きを一体の題材としている・摺出鼻上に唐獅子が居る:更池・
向野と共通。高さ寸法が大きめに取られた虹梁を持つ:向野と共通。彫刻の題材に着目しますと
小屋根枡合の題材が牡丹・松のみで獣が登場しない:更池・築地本町5丁目と共通。
飛竜退治の題材を三枚板に採用:更池・築地本町5丁目と共通。
等、河村新吾の作品と関係がありそうな点がいくつか見受けられます。(銘なしの作品も含めますと、更に多くの地車と共通点を持っています。)
しかし、これまで記述した内容を一気に覆される要素がある地車が田園です。
西陶器小学校150周年の折に発刊された資料には、田園は明治18年に河村新吾の作と伝わっている。と記述されましたが、住吉大佐の地車請取帳には「とき村たゞの丁江 明治十三年」の記述があり、書かれている仕様と整合性が取れていることから、依然として川崎仙之助の関与が拭いきれないことが指摘されています。
改修前の写真がしっかり残っており、上原とは破風形状が似ていることや、桁隠しが取り付けられている等の共通点が確認出来る上、豪華な縁取りの扁額・彫刻が施された隅行肘木・天蓋彫刻を持つ、等の共通点は改修後の現在でも確認することが出来ます。
田園についてこの辺りの解明が進みますと、銘なしの作品として例を挙げた地車達も同様に解明が進むものと思われます。
このような考え方を理由に、これまで大工…堀内市松、と記述していたものを、大工…河村新吾(一部地車については堀内市松経由で購入)との記述に変更をかけております。
※追記です。
別の方より向野は銘入りでないとご指摘をいただき、再度確認しましたところ、私の勘違いのようでした。
部分的に消去しますと、文脈がおかしくなる可能性がありますので、取り消し線を入れさせていただいております。
読み難い文章となってしまい、申し訳ございません。
はじめまして
河村新吾の銘が出ている更池、向野、築地本町五丁目 とありますが向野の銘は聞いたことも見たこともありません
羽曳野の向野のことですか?
匿名さま
ご指摘ありがとうございます。
向野は河内長野の向野のつもりで記述をしておりましたが、勘違いしていたようで、向野は銘が出ておりませんでした。失礼いたしました。(自身の記事も再度見返しましたが、銘が出たとは記述しておりませんでした。)
恐れ入りますが、明治期の板勾欄型について、より詳しい知識をお持ちの方だとお見受けいたしました。
差し支えなければ他にもご意見をいただけませんでしょうか。
返信ありがとうございます
こちらも先代地車探訪記さんの記事を楽しみにして考察なんかを参考にさせて貰ったりしています
向野の平成5年大改修前の台木は池田の新宅と全くと言っていいほどそっくりです
大工仕事で特徴的なのはやはり脇障子かなと思います
あとは屋根の形状も改修前は先端が細く原型を残してる先代片添などの板勾欄出人形式の屋根にそっくりです
河村新吾については謎が多いのでどれくらいの規模でどれくらいの時期に地車を何台ほど作っていたのかわかってないんで銘が出ていない地車は難しいですよね
板勾欄タイプなら大源も住吉の聞き取りで「大源はあのへんやった」と何人かの古老には聞けたんですが具体的な場所や名字は判明しませんでした
大工を辞められた跡地には大源ハイツが建っていたそうです
匿名 さま
仰る通り、板勾欄型は台木の形状や波の作風が、一つの判断材料となるところが面白いと感じます。
大工さんの材料の取り方により、波の作風が変わるのは当然理解出来るのですが、住吉大佐と住吉大源の台木は形状にあまり差異が無いものの、何故か住吉大源の作品は共通して住吉大佐の作品より鋭利な波の作風となっています。
通常であれば、同一の彫刻師さんだからこそ似た作風が生み出される。と考えるのが自然かと思いますが、大源の銘が入っている3台(南町・門口、青谷南・三田宮本)を見る限り、完全に同じタイミングで製作された地車とは思えず・・・不思議なことに、台木に関しては大工さんの方で彫刻も含めた明確な意匠設計の指示がなされていたのではないか、と考えることになります。
理由は何でしょうか、住吉大佐との丸被りを避けるため?
そもそも住吉大源の存在は?現代風に言うと、住吉大佐が住吉大源へOEM供給していた?何故、板勾欄型しか住吉大源の作品が見つからないのか?
謎は深まるばかりです。
大源ハイツについては、私が全く存じ上げない内容でした。
ご教示いただき、ありがとうございます。
こちらもご丁寧に返信いただきありがとうございました。
私も る様 と同じく長年調べておりお互い情報を共有させていただいです
改修前の写真など提供できることもあるかもしれませんので差し支えなければ同じく併記メールへご連絡いただきましたら幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。
匿名さま
お返事が遅くなり、申し訳ございません。
コメント時にご登録いただきましたメールアドレスへご連絡をさせていただきました。
お手数をおかけいたしますが、ご確認いただけましたら幸いでございます。
よろしくお願い申し上げます。
地車写真保存会 様
ご丁寧に返信いただきありがとうございました。
堀内市松、河村新吾にまつわる経緯について深く考察されていることに感嘆いたしました。
私自身も地車写真保存会様が今回のご返信であげられた内に記載のある地車の経緯やそれにまつわる諸々について長年調べております。
ご提供できる資料もあるかもしれませんので差し支えなければ併記メールへご連絡いただきましたら、今後の調査のご協力にお力添え出来るやもしれず、そうなれば幸いと考えておりますので、どうぞよろしくお願いいたします。
る さま
お心遣い感謝申し上げます。
コメント時にご登録いただきましたメールアドレスへご連絡をさせていただきました。
お手数をおかけいたしますが、ご確認いただけましたら幸いでございます。
よろしくお願い申し上げます。