獅子噛特集 木下舜次郎師の作品

1934年(昭和9年)

芦屋市打出地車

この時から既に舜さんの作品の最後まで変わらない特徴が出来ています。
・中央で二分される上唇
・口髭
・太くゴツゴツした手(爪よりも甲をよく見せる)
・鬣は横方向に伸びる など・・・

この作品だけの特徴として、破風のラインに沿って口元の奥を切っているので、弓型の形状になっており、高さ方向が控えめの印象となっています。

1935年(昭和10年)

東大阪市北蛇草地車

大変研究熱心だったと言われる舜さん、この地車の3年前に製作された元・堺市野田地車の作品に間違いなく影響を受けていると思われる作品です。
前後で向かい風・追い風の鬣になっており、後年の舜さんの作品には無い扇状に広がった歯が特徴的です。

1935年(昭和10年)

東大阪市稲田北地車

パッと見、舜さん?といった感じですが、北蛇草でも見られた扇状の歯がこの作品にもあります。
注文が多く、作品のクオリティを下げずに効率よく仕上げるにはどうすればよいか、色々苦心されたのだと思います。
結果、鬣を片方それぞれ3巻ベースとする形状がこの作品で確立されました。

1935年(昭和10年)

忙しく仕事をこなす中で、 上下に長い歯・眉から耳にかかる毛など、 以後の作品でも特徴となる部分の基本形が誕生しました。
また、この作品から爪を少し口元よりに向けて巻くようになります。
目の周りの窪みが効いており、影が出て怪しく怖い雰囲気が出た作品です。

舜さんはこの後暫く上地車の注文は間が空きますが、その間に多数の下地車を手掛けておられます。
また、長男・次男の誕生、弟子を取られる等があり、身辺の環境が大きく変化されます。

1952年(昭和27年)

大阪市西足代地車

暫く空けて久々の上地車の彫刻、かなり気合いを入れて製作されたと思われます。

稲田北で得た片方3巻きベースの鬣・稲田中で得た顔・手の形状をそれぞれ足して2で割り、少しラフな感じだった毛並みの線を細部まで明確に彫ることで、よりくっきりとした表情を得ています。

また、八重歯を生やすとどうなるのか、試しているようです。

詳細年不明

大阪市海老江東之町地車

海老江東は昭和初期?に事故があり、獅子噛を舜さんの作品につけかえています。
詳細な製作年は残っていない?ようですが、作風の特徴から恐らく昭和27〜30年頃の作品ではないかと私は思います。
幕の新調や大修理でも多額の金銭を村人が用意してきた東之町・・・獅子噛の新調にもかなりの額を用意されたのではないでしょうか。
舜さんもその期待に応えるように、これまでにない恐ろしい作品を作り出し、「これぞ舜さん!」と呼ばれる後半の作品の初期型が誕生します。

まず作品自体が大変大きく肉厚です。とにかく荒々しく左右の対称性が無いところや獅子と目線が合わないところも恐ろしさを倍増させる要因の一つです。

そして交換前の角が生えた相野の獅子噛を見て影響を受けたと思われ、この作品より角が生えるようになります。
鬣が深く巻数は大量、横方向へ伸びる本数も多くなり、手を少し上向きに構えて指の太さを強調した作品になります。
また、丸々とした鼻とコブがこの後の作品にも引き継がれることになります。

年代と共に顔は徐々に上を向いていましたが、この作品では再び俯いています。

1955年(昭和30年)

大阪市中神車(野里中之町地車)

海老江東以上に多額を投じて、本体を全て新調された中神車。かなり時間をかけて製作されたと思われます。
舜さんは前作で形作られた新しい顔を、よりブラッシュアップして整え、男前の表情に仕上げました。

左右の対称性を意識し、数えきれない程鬣の巻き数を増やしました。
西足代で試行された八重歯がこの作品にも取り入れられ、これまでには無い頬髭がこの作品で新たに追加されます。

また、顔を上げて目線は再び上を向くようになります。

1958年(昭和33年)

大阪市野里西之町地車

中神車で形作られた多数の鬣・頬髭・手の形などをよく引き継ぎ、毛並みの線を細かく多いものから本数を限定して一線一線明確に彫るように変化しています。

再び顔は俯きがちになり、耳を大きく広げて見せています。
舜さんは少し俯いている表情の方が好きなのでしょうか。

(番外編)詳細年不明

大阪市鶴見東之町地車

こちらは舜さんの作品とも井尻翠雲師が舜さんの作品に似せて彫ったとも言われており、その前情報もあって、やはり舜さんの作品では無いように見えます。
大屋根前方のものが最もそれらしく作られた作品で、小屋根のものがあまり似ていない辺りも、似せて彫ったのではないかと思える要因の一つです。
野里西之町の作風にかなり近いような気がしますので、製作年は昭和33年以降と思われます。

目がパッチリ大きく前方を向いている点や、指の並べ方・手の平の形状が従来とは異なりますが、それ以外は特徴がよく再現されています。
誰かの作風に似せて彫った作品というのは稀にありますが、その中でもかなりレベルが高く似せてきた作品で、観察力・再現力共に技術の高さが伺えます。

(番外編)写真なし

余談ですが、堺市辻之先代地車、東大阪市若江南先代地車だったかな?とにかく堺型にも淡路彫り・舜さんの作品らしい獅子噛をつけていた地車があったと記憶しています。
辻之先代に関しては個人所有になっており、今となっては見ることが叶いません。

「獅子噛特集 木下舜次郎師の作品」への2件のフィードバック

  1. いつも楽しく拝見させて頂いています。
    上地車時代の鳳野田区の祭禮に参加していた者です。
    元・野田区地車の彫刻責任者は吉岡義峰師ですが、獅噛みは義峰師の作刀ではありません。
    新調時、植山宗一郎師、吉岡義峰師、野田区新調委員の3人で彫刻の見本を探す為、摂河泉の地車を見学していたそうです。ほぼ同時期に絹井楠次郎師・川原啓秀師の手で野田玉川町地車が製作中で、新調委員と義峰師が見に行ったところ、見事な獅噛みが彫られており、新調委員が義峰師に同じくらい立派な鬼熊(獅噛み)を彫って欲しい!と懇願して義峰師が2回も彫り直すものの満足の行く出来にならず、義峰師が川島暁星師に相談して横浜から浅野某?さんという彫師を呼び寄せて製作したものになります。
    浅野師の流派等は不明ですが、元・中井町地車の土呂幕三面も浅野師の作品で植山義正師も絶賛されていたとの事です。
    野田地車完成の数年後、大宗師より野田区地車の獅噛みを見本にしても良いか?と野田区に打診があり快諾し、完成後に見せてもらったところソックリの出来だったという古老の話が伝わっています。時期的に診ても北蛇草地車の獅噛みに間違いないと思います。

    海老江東之町地車は昭和7年に絹井楠次郎師により修復されており、その際に獅噛みも製作・交換されました。木下舜次郎師初の獅噛みではないかと思います。
    木下彫刻工芸の工房にこの獅噛みと若き日の舜次郎師が収まった写真が飾ってあります。
    鬣の彫の深さや口髭、目線が正面でなくほぼ真下にある事、指・爪の踏ん張り具合等、個人的には野田の獅噛みに似ている様にも感じます。

    1. 地車写真保存会

      毎度のご訪問、コメントをいただきありがとうございます。

      先代野田区の獅子噛について、そのようないきさつがあったとは全く知りませんでした、大変勉強になります。
      私も隣の地区で祭礼に参加しておりましたので、先代野田区は度々見ておりました。お決まりの感想になってしまうかもしれませんが、様々な上地車を見ても、あの作品以上の獅子噛は無いと思います。

      海老江東の俯いた感じはおっしゃる通り先代野田区に近いものを感じます。初の獅子噛であのような強烈な作品を生み出してしまう木下舜次郎師は(勿論称賛的な意味で)恐ろしいです。

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