
10/16追記
※こちらの記事を投稿以来、沢山の反響を頂いております。ありがとうございます。
改めたい部分が多数出てきておりますので、また資料を用意の後、修正させていただく予定です。
皆さんこんにちは。
少し時間が経ちましたが、再び尼崎の地車の記事となります。
今回は堺市上の先代地車にあたる、南浜地車をご紹介したいと思います。
南浜地車は以前から度々撮影はしていましたが、肝心な部分の撮影が毎回欠けており、なかなか記事化出来ておらず・・・今回こそはしっかりと漏れなく撮影するぞと意気込んで、見学をしてきました。
この地車の出自は少し変わっており、西だんじりやの下川安次郎師が2台の地車を1台にして製作したと言われており、上は大正4年に伯太の業者より購入したと伝わっています。
昭和57年に池内工務店で大改修を受けており、それ以前は銘板があったそうですが、今は無くなっています。
過去に撮り溜めた改修前の写真も併せて比較しながら見て頂けるように記事を構成しています。
それではご覧ください。
尼崎市初嶋大神宮 南浜地車
◆地域詳細
宮入:初嶋大神宮
小屋所在地:戎橋を渡ってすぐの集合小屋
◆地車詳細
形式:尼崎型(元・住吉型)
製作年:明治末期~大正4年以前
購入年:平成9年
大工:下川安次郎 (2台の地車を1台にし、不足の彫刻を足して製作。)
彫刻:彫又一門
歴史:?→伯太の業者→堺市上→尼崎市南浜
姿見

左が前方、右が後方。
大型の地車です。堺市上の先代地車にあたり、よく見ると上時代の跡が現在も残っています。
現在の姿見は昭和57年の池内工務店での大改修で形作られた部分が大半を占めています。

側面より
平成31年に南浜でも大改修を行い、洗い掛け・傷んだ彫刻の交換・特徴であった段差勾欄を通常の勾欄にする、等が行われています。

側面より(平成31年の改修前)
段差勾欄時代の記録です。
上時代の昭和57年に躯体系・勾欄の部材や・破風・台木等を交換しているので、あまりオリジナルらしさは感じません。
上の改修前の写真を色々調べはしましたが、改修後の写真ばかりで、見つかりませんでした。

斜め前より

斜め前より(平成31年の改修前)
この地車は2台を1台にしているので、オリジナルと言うと2台のうちのどちらを指しているのか、との話になりそうですが・・・あくまでも下川安次郎師が組み上げた状態をオリジナルとして記事を書いております。
破風

現在の破風は昭和57年に池内工務店で改修を受けた時に入れ替えられたもので、比較的新しいしっかりとした破風です。
平成31年の改修で獅子噛と懸魚・桁隠しが交換されています。
仕口

この地車の特徴の1つで、枡組を介さず直結する仕様になっています。
鬼板

上から
大屋根前方:『獅子噛』
大屋根後方:『獅子噛』
小屋根:『獅子噛』
恐らくトレース元は改修前の大屋根後方の作品かな?と思われます。

(平成31年の改修前)
上から
大屋根前方:『獅子噛』
大屋根後方:『獅子噛』
小屋根:『獅子噛』
大屋根前方が復元彫刻で、大屋根後方と小屋根がオリジナルです。
似た作品を探しましたが1つもヒットせず、製作者は不明です。4本爪・鼻・眉の感じは柏原市本郷地車に似ていますが、鬣や耳は似ていません。
下川安次郎師の作かな?とも思い、富田林市新堂地車や東大阪市横枕地車とも見比べましたが、鬣の渦の数しか同じではありませんでした。
箱棟

箱棟:『龍』
平成31年の改修で交換されたものです。
懸魚・桁隠し

大屋根前方の懸魚と桁隠しは一体の作品となっています。

懸魚・桁隠し:『七福神』
平成31年の改修で交換されたもので、細かく豪華な作品です。

平成31年の改修前
大屋根前方
懸魚:『鳳凰』
桁隠し:『鶴』
オリジナルは上地車らしい獣の題材でした。

大屋根後方
懸魚:『松』
桁隠し:『松』
大屋根後方にも懸魚・桁隠しがあります。

小屋根
懸魚:『猿に鷲』
桁隠し:『鶴』
大屋根後方と小屋根には貴重なオリジナルが残っています。
車板・虹梁・持送り

大屋根前方
車板:『宝珠を掴む青龍』
虹梁:『牡丹』
持送り:『猿』
枡組を持たないので、大きな車板が取り付けられています。

小屋根
車板:『素戔嗚尊大蛇退治』

右面大屋根側
車板:『龍』
虹梁:『牡丹』
持送り:『猿』
この辺りもオリジナルがしっかりと残っていますが、気になるのは木鼻の取り付け位置ですね。
本来であれば虹梁と同じレベルについているはずですが、若干ズレています。
構造体の虹梁を抜いて高さ寸法を減じているか、他の地車の部材か、何かしら理由がありそうです。

右面小屋根側
車板:『牡丹に唐獅子』

左面大屋根側
車板:『龍』
虹梁:『牡丹』
持送り:『猿』

左面小屋根側
車板:『谷越獅子』
小屋根側の作品はどちらも牡丹に唐獅子ではなく、左面は谷越獅子となっているのが特徴です。
木鼻

上が右面、下が左面。
木鼻:『阿吽の唐獅子・力神』
柱桁を直結するタイプの地車でよく見られる唐獅子の上に力神が乗る仕様です。
車板・虹梁のところで上述しました通り、取り付け位置に若干疑問が残ります。
水引幕

水引幕:『蔓柏紋』
柱飾り

柱飾り:『阿吽の龍・阿吽の唐獅子』
特徴ある彫刻で、柱巻きのように柱をカバーするような彫刻ではなく、完全に別物として地車の前方に存在しています。
また、龍の下には唐獅子がいます。
恐らくですが、この彫刻は最初からこの場所にあった訳では無く・・・↓↓↓
車内虹梁

車内虹梁:『阿吽の龍』
下端の処理が端部だけ異なっており、下に更に彫刻が続いていてもおかしくないように見えますし、題材も同じです。
この部分の両サイドに取り付けられていた部材ではないでしょうか。
それなら龍の下の唐獅子はどこにあった物なのか、と言われると分かりませんが・・・
脇障子上人形

脇障子上人形:『飛獅子』
立体的な飛獅子の彫刻が取り付きます。
摺出鼻の先端等によく取り付いているイメージですが、これはオリジナルの状態でこの場所にあったと見て良いと思います。
脇障子

脇障子(前方):『武者』

脇障子(後方):『猩々・司馬温公の甕割り』
脇障子は前方と後方で異なる題材となっており、作風も異なります。
この辺りも2台の地車を1台に…が関連する部分でしょうか。
三枚板

正面:『今川義元の最期』
立体的かつ大振りで立派な三枚板の彫刻を持ちます。
家紋が金具で表現されているので、人物も分かりやすく、見学している方はとても助かります。
三枚板はどれも彫又一門の雰囲気がよく出ています。

右面:『加藤清正の勇姿』
題材的に3面で何かの合戦を示している、というものではなく、戦国時代の武将が活躍する様子を1面毎に独立して表現しているようです。

左面:『豊臣秀吉の勇姿』
大きな三枚板で、出人形を思わせるかのような手前に張り出した立体的な彫刻を見ていると、柏原市本郷地車や柏原市古町地車を思い出します。
角障子

角障子(前方):『獅子の子落とし』

角障子(後方):『獅子の子落とし』
地車に対して直行方向の角障子が取り付きます。これも特徴ある個所の一つです。
上方に切り欠きがあるのが気になります。元々はこの場所に無かったパーツかもしれません。
摺出鼻

摺出鼻:『谷越獅子』

摺出鼻:『谷越獅子』
個人的にお気に入りの部分です。
彫り抜きが凄く、牡丹や唐獅子が立体的になるように彫刻された作品となっています。
旗台

旗台:『力神』
現在は使われていませんが、しっかりと残っています。
勾欄合・縁葛

前方
勾欄合:『唐子遊び』
縁葛:『花鳥風月』
平側の勾欄合は5つになっており、数が多いです。

後方
勾欄合:『唐子遊び』
縁葛:『花鳥風月』

右面大屋根側
勾欄合:『唐子遊び』
縁葛:『花鳥風月』

右面小屋根側
勾欄合:『唐子遊び』
縁葛:『花鳥風月』

左面大屋根側
勾欄合:『唐子遊び』
縁葛:『花鳥風月』

左面小屋根側
勾欄合:『唐子遊び』
縁葛:『花鳥風月』

平成31年の改修前
段差勾欄を解消したことにより、縁葛の彫刻の順番が入れ替わり、勾欄合の欠けた部分が補修されました。
持送り

持送り:『雲海』
段差勾欄は解消されましたが、段差勾欄特有の斜め45度の持送りは健在です。
土呂幕

前方:『梶原景時 箙の梅』
改修前は後方に居ましたが、前方へと移設されています。
現在納まっている土呂幕手前側にもう一枚ある形で存在しているので、こういった点からも2台の地車を1台に、と言われているのだと思います。
三枚板にしては少し高さ寸法が足りないような気がしますので、元々この作品も土呂幕だったと思われます。

平成31年の改修前
前方:『鬼若丸鯉退治』
梶原景時の後ろにある彫刻ですが、貫腕の影響で殆ど見えません。
土呂幕・下勾欄

ここもかなり特徴ある部分です。
端部が袖壁になっており、板勾欄を接続させています。
これと完全に同じ仕様になっている地車は他には無いのではないでしょうか。

右面大屋根側
土呂幕:『平景清錣引き』
下勾欄:『牡丹に唐獅子』
土呂幕まわりの彫刻は彫又一門の作品とは少し違うような気がします。
この辺りが下川安次郎師が不足した彫刻をつけ足して・・・の部分になるのでしょうか?新堂や横枕と見比べて、下川安次郎師の作風かと言われるとそれもよく分かりませんが。

右面小屋根側
土呂幕:『平景清錣引き』
下勾欄:『牡丹に唐獅子』

左面大屋根側
土呂幕:『敦盛呼び戻す熊谷治郎直実』
下勾欄:『牡丹に唐獅子』
土呂幕にこの雰囲気の彫刻を見ると大阪市鶴見区今津地車を思い出しましたが、特に関連性は無いと思います。

左面小屋根側
土呂幕:『敦盛呼び戻す熊谷治郎直実』
下勾欄:『牡丹に唐獅子』
台木

前方
平成31年の改修で懐が作成され、安全柵も新しいものに変わりました。

右面:『波濤』

左面:『波濤』
台木は昭和57年の改修で彫り替えられたものと思われます。
平成31年の改修後もそのまま使われています。
金具

①破風中央:『唐草模様』
②破風傾斜部:『唐草模様』
③破風端部:『唐草模様・梅鉢紋』
④垂木先:『菊紋』
⑤脇障子兜桁:『梅鉢紋』梅鉢紋は上時代の名残だと思います。
⑥縁葛端部:『唐草模様』
⑦肩背棒先:『南浜』の文字。
銘

昭和57年に池内工務店で修復した際の銘です。
記事としては一旦ここで終了となります。
以下は読み物となり、正確性等も落ちますので、ライトに見て楽しめる方はどうぞお進みください。
元となった地車の予想
まずは、一番の特徴である構造部分から見ていきたいと思います。
以下に段差勾欄を持つ地車を並べ、更に間柱の有無でグループ分けをしてみました。
・間柱がないタイプ (土呂幕が片面2枚)
尼崎市南浜地車
柏原市古町地車
橿原市今井町西町地車
羽曳野市古市北町地車 (元は土呂幕彫刻が無かったと思われる)
八尾市垣内地車
香芝市下田地車 (土呂幕彫刻なし) ←志紀郡舟橋邑の大工製作と墨書きあり
・間柱があるタイプ (土呂幕が片面3枚)
橿原市小綱町地車 ←堺北の大工銘あり
門真市小路地車 (現在は段差勾欄が解消されている)
三田市福島地車 (現在は段差勾欄が解消されている)
和泉市春木川先代地車
河内長野市三日市北部地車 ←大工 森市市之助の墨書きあり
柏原市本郷地車 (元は土呂幕彫刻が無かったと思われる)
・全て通し柱になっていない、かぐら造りタイプ
富田林市五軒家地車 ←大和高田市新町より購入
千早赤坂村二河原辺地車 ←新庄町弁之庄より購入
このようになります。
段差勾欄を有する地車の中でも仕様が似ている地車同士をある程度グループ化出来ていると思います。
こう見ると南浜地車が近いのは柏原市古町地車や橿原市今井町西町地車のように見えてきます。

橿原市今井町西町地車
南浜地車との共通点
柱の本数:○
土呂幕部に斜め45度の持送り:○
桁隠し:○
柱桁直結:○
桁カバー:○
仕口隠し:△(カバーではなく持送り)
虹梁持送り:○
框あり脇障子と上に人形:○
直行方向の角障子:○
下勾欄:×

柏原市古町地車
南浜地車との共通点
柱の本数:○
土呂幕部に斜め45度の持送り:○
桁隠し:○
柱桁直結:○
桁カバー:×
仕口隠し:○
虹梁持送り:×
框あり脇障子と上に人形:○
直行方向の角障子:×
下勾欄:×
以下、橿原市今井町西町地車を中心に、銘ありの橿原市小綱町地車との比較も交えながら共通点を見ていきます。
①屋根まわり

橿原市今井町西町地車
桁隠しあり、柱桁直結、虹梁持送りありの仕様。南浜地車と同じです。

銘ありという点でどうしても引き合いに出すことになる橿原市小綱町地車。
今井町西町とは破風の形状が全く異なり、同じ大工の作品とは到底思えないのですが、各所共通点が多いのが不思議なところです。
②桁

橿原市今井町西町地車
桁カバーが取り付きます。この辺りも南浜地車と同じ。

橿原市小綱町地車
こちらにも桁カバーが取り付きます。
③脇障子・角障子

橿原市今井町西町地車
框あり脇障子と上に人形、直行方向の角障子があります。この辺りも南浜地車と同じです。

橿原市小綱町地車
この辺りもとてもよく似ています。
④土呂幕まわり

橿原市今井町西町地車
段差勾欄を有する地車には必須アイテムのようです。南浜地車も同様。

橿原市小綱町地車
こちらにもあります。ただし、間柱がある点は今井町西町地車とは異なります。
やはり気になるのが、今井町西町のように大工銘が無い段差勾欄の地車がどこで製作されていたのか、というところ。
間柱の有無や土呂幕の有無の違いはあれど、斜め45度の持送りや、脇障子の意匠等、似ているところがあります。
ついつい堺生まれ?と言いたくなりますが、下田地車のように志紀生まれの作品もありますので、それもまた不思議なところです。
以下、南浜地車で珍しい納め方をされている下勾欄について、少し掘り下げてみます。
⑤下勾欄

河内長野市小塩町地車
袖壁に下勾欄を接続しているのは全く例が無い訳ではありませんが、かなり少数派です。
真っ先に思いつくのが河内長野市小塩町地車ですが、板勾欄ではありません。
また、羽曳野市樫山地車も同じ仕様ですが、改修後の彫刻になっているため、オリジナルがどのようであったかは不明です。

河内長野市石坂地車
板勾欄の下勾欄で獣の彫刻となると、堺の萬源製作の板勾欄堺型を思い出さずにはいられません。
南浜地車の土呂幕まわりは小塩町と石坂を融合したようなつくりになっているのがとても興味深いです。
→土呂幕の前に土呂幕がある点が最も該当するのだと思いますが、この唯一無二性が、後付けや別地車のパーツと言われている要因なのかな?と思っています。
まとめ

赤が南浜地車の大半を構成している段差勾欄の地車の部分。
緑がもう一台の地車・不足した彫刻を取り付けたと言われている部分。
なのかな?と、私は解釈しました。
恐らく、今井町西町や古町地車のようなベースの地車があったが、土呂幕の彫刻が不足していたか、元々無い地車だったのかもしれません。
そこで土呂幕の彫刻を調達し、下勾欄を追加して、組み上げたのではないか、といった気がしました。
昭和57年に池内工務店で改修を受ける前の姿を見れば、もう少し分かる部分があるのかもしれませんが、改修に改修を経た現在の姿ではなかなか想像が難しいですね。
識者からすると、何言ってんだ、となるかもしれません。詳しい方がいらっしゃいましたら優しく教えて頂けますと幸いです。
いかがでしたでしょうか。
謎の多い作品で、見ていて楽しい地車でした。
また、立派な三枚板の彫刻は必見ですね。
南浜の皆様、見学に際しまして、大変親切にしていただき、ありがとうございました。
いつも楽しく拝見しております。
南浜の類例としてすでに解体されていますが深江新家も挙げられると思います。
南浜地車との共通点
柱の本数:○(丸柱の本数も同じ)
土呂幕部に斜め45度の持送り:×
桁隠し:○
柱桁直結:○
桁カバー:○
仕口隠し:○
虹梁持送り:○
框あり脇障子と上に人形:△(人形なし)
直行方向の角障子:×
下勾欄:×
閂(痕跡):○
旗台:×
三枚板の趣が似ていると思います。今は南十番に取り付けられている彫刻です。
出人形風の立体的で大ぶりである点と三枚板正面が人物を持ち上げる構図を配置する点など共通しています。
また深江新家は縁の張り出しがなく屋根とほぼ面一で、今井西や古町より姿見の雰囲気は似ていると思います。
深江新家も南浜と同じく鳳出身なので何か関係があるかもしれません。
かしとんさま
コメントありがとうございます。
深江新家地車については完全にノーマークでした。
改めて見返してみますと仰る通りで、南十番に取り付けられている三枚板の彫刻は本当によく似た雰囲気をしておりますし、勾欄の張り出し具合は今井町西町・古町より南浜地車に近いと感じます。(もしかしてかなり知られている話でしょうか、お恥ずかしい限りです。)
現在は解体されて彫物が散り散りになってしまっているので何とも言えませんが、深江新家地車も獅子噛が服部一門であるのを見ると、バラバラの彫物を組み合わせて作られたのか?といった余計な事も考えてしまいました。
繋がりそうで繋がらない部分が多い段差勾欄の地車達ですが、今後もよく注目して比較してみたいと思います。